信長による築城と廃城とは? わかりやすく解説

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信長による築城と廃城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 15:52 UTC 版)

小牧山」の記事における「信長による築城と廃城」の解説

織田信長は、永禄3年5月19日1560年6月12日)の桶狭間の戦い勝利した後、念願美濃国併呑実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻め開始した永禄5年1月15日1562年2月18日)には徳川家康清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側脅威消滅した。これによって、信長全力美濃国攻め体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方本拠地前進する策が実施可能となった。この新し本拠地選ばれたのが、広大な濃尾平野中に孤峰を保つ小牧山であった丹羽長秀奉行として小牧山山頂に城を築き永禄6年1563年7月には主要兵力小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。 信長家中小牧山移転の際のエピソードがある。清須から北方移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服思っていた。そこで信長一計案じ小牧山よりさらに北方丹羽郡二ノ宮山(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮本宮山)に城を築き移転する布告した。当然、清須城内は反対一色となった信長反対意見十分に出た頃を見計らい家中意見吟味した結果として二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転変更することを申し渡した。すると今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転同意したという。この計略人間心理巧みに利用したものであり、似たようなエピソード古今東西存在するため真偽不明であるが、文明年間以来、約80年間にわたって守護所として栄え家臣らが各々屋敷を持つ清須から他の地へ移ることへの抵抗大きかったことが推測される平成22年2010年)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」と墨書された石垣石材出土した奉行丹羽長秀一人築城全て取り仕切ったわけではなく家臣団それぞれ資材調達作事分担があったことがわかる。また、信長家臣を競わせ築城進めさせたと推測する説がある。 従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、従来は「美濃攻略のための(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」と考えられていたが、2004年から試掘調査で城の主郭四方石垣囲んだ本格的な城であることが判明し当初信長長期滞在考えていた可能性指摘されている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町形成された。移転後織田軍は小牧山城本拠地として美濃への侵攻調略繰り返し永禄10年8月15日1567年9月17日)、美濃斎藤氏本拠地であった稲葉山城落城信長稲葉山城拠点移し城下町機能全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった

※この「信長による築城と廃城」の解説は、「小牧山」の解説の一部です。
「信長による築城と廃城」を含む「小牧山」の記事については、「小牧山」の概要を参照ください。

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