信長による築城と廃城
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織田信長は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。 信長家中の小牧山移転の際のエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。当然、清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転に変更することを申し渡した。すると今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したという。この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため真偽は不明であるが、文明年間以来、約80年間にわたって守護所として栄え、家臣らが各々の屋敷を持つ清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことが推測される。 平成22年(2010年)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣、佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」と墨書された石垣の石材が出土した。奉行の丹羽長秀一人が築城の全てを取り仕切ったわけではなく、家臣団にそれぞれ資材調達や作事の分担があったことがわかる。また、信長が家臣を競わせ築城を進めさせたと推測する説がある。 従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、従来は「美濃攻略のための(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」と考えられていたが、2004年からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった。
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