烏丸光康とは? わかりやすく解説

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烏丸光康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/09 02:35 UTC 版)

 
烏丸 光康
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年 10月13日1513年11月10日
死没 天正7年4月27日1579年5月22日
改名 光康→了覚(法名)
別名 号:後蓮光院、一字名:丁
官位 従一位准大臣
主君 後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇
氏族 烏丸家
父母 父:烏丸冬光、母:鴨信祐の娘
兄弟 資蔭、光康、女(朝倉景高室)
女(広橋国光室)、男、光宣、女(正親町季秀室)、女(五条為経室)、女(広橋兼勝室)
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烏丸 光康(からすまる みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿官位従一位准大臣[1]

生涯

永正10年(1513年)10月13日、烏丸冬光の子として誕生[2]

将軍・足利義晴と親しく、大永7年(1527年)には近江にいた義晴のもとに下向した[2]

享禄4年(1531年)1月、義晴が従三位権大納言に昇進した際、勅使・清原業賢が朽木に下向してその宣旨を下したが、その対面時には光康が申次を務めていた[3]

同年、越前に下向した[2]

天文6年(1537年)2月19日、参議となる[1]

天文16年(1547年)3月、足利義輝・義輝父子が北白川城に籠城すると、光康も日野晴光高倉永家町資将、賀茂在留ら公家衆とともに付き従った[4]

永禄12年(1569年)8月14日、光康は嫡子の光宣山科言継飛鳥井雅春と共に、岐阜城織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った[5]

元亀元年(1570年)8月27日、光康は正親町実彦はと共に、野田・福島に陣取る三好三人衆と交戦中の信長のもとに赴いた[6]

元亀2年(1571年)4月14日、嫡子・光宣に足利将軍家から嫁いでいた入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[7]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[7]。また、光宣の出奔により、光康は閉門処分となった。

元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置を妥当とするものの、光康は赦免するように申し上げたと記している[8]

天正7年(1579年)4月27日、薨去[2]。享年67(満65歳没)[2]

脚注

  1. ^ a b 公卿補任
  2. ^ a b c d e 「烏丸光宣」デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  3. ^ 榎原 & 清水 2017, p. 325.
  4. ^ 『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」
  5. ^ 『言継卿記』永禄12年8月14日条
  6. ^ 『言継卿記』元亀元年8月27日条
  7. ^ a b 木下 2014, 「足利義昭期の昵近公家衆と山科言継をめぐって」
  8. ^ 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 - 194ページ

参考文献

関連項目



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