朽木での政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:09 UTC 版)
大永6年(1526年)7月、高国が家臣の香西元盛を細川尹賢の讒言に応じて殺害すると、元盛の兄弟である波多野元清や柳本賢治らが高国から離反、細川晴元(当時は六郎)と内通し、内紛が発生した。さらに、晴元は足利義維を擁立し、晴元方の細川澄賢、三好勝長、三好政長らが和泉の堺を経て上京した。 大永7年(1527年)2月、高国が晴元方に桂川原の戦いで敗れたため、義晴は高国とともに近江坂本に逃れ、蒲生郡武佐の長光寺に入った。その間、晴元と義維は三好元長に奉じられ、阿波から和泉堺へと入り、堺公方が成立した。 10月、義晴は細川尹賢、六角定頼、朝倉教景ら5万人の軍勢とともに入京した。さらに、畠山義堯を破り、西岡まで進出したものの、三好元長と柳本賢治に挟撃され、19日に敗れた。その後、両軍はともに入京し、義晴と元長との間で交渉が行われた。 大永8年(享禄元年、1528年)1月17日、義晴は定頼の仲介を受け、三好元長と和睦した。このとき、元長が義晴の滞在していた東寺を訪問して、義晴と面会している。だが、賢治がこれに反発したほか、三好政長も賢治に同調して28日に京を去ったばかりか、2月9日には晴元もこの和睦に反対していることが判明した。 5月14日、高国が失脚して京都から逃亡したのち、28日に義晴は軍勢2万(うち1万は六角勢)とともに近江坂本に移った。和睦交渉自体は晴元と義晴方の六角定頼との間で継続されたが、堺の義維が阿波に退却しなかったため、義晴は晴元を疑うようになった。そして、7月に元長が京において、地子銭の徴収を強行したため、交渉が決裂した。 9月、義晴は高島郡朽木庄に落ち延びた。朽木庄を含む高島郡内には7氏もの幕府奉公衆たる領主がおり、義晴が頼った朽木氏の当主・朽木稙綱もその一人であった。また、湖西地方の朽木は京から北東の地で最も安全が確保された地で、日本海側への逃走ルートを確保できる位置にもあり、いざとなれば義晴方の勢力がある北陸・山陰に抜けることができた。義晴は朽木滞在中、岩神に居住したが、阿野季時や大舘尚氏、大和兵部少輔なども付き従った人々も、それぞれ宿所を持っていた。 義晴は2年半にわたり、朽木において幕府政治を行った。朽木の義晴には多くの人々が付き従い、奉公衆・奉行衆・昵近公家衆・外様衆・御供衆・御部屋衆・申次衆・番衆・同朋衆・女房衆ら幕府を構成する人員が揃っており、相当数が朽木に滞在していたため、亡命先での幕府政治を可能とした。もっともこれらの中には、晴元方の工作で堺公方に寝返る者もおり、享禄2年(1522年)8月には公家衆17人が朽木を退いたが、幕府を支えた人々の多くは朽木に残った。 地方の大名もまた、義晴との関係を維持していた。近江においては、六角氏と湖北地方の京極氏・浅井氏と対立していたが、義晴は朝倉氏に近江北境を守らせるとともに、高国に六角氏と浅井氏を仲介させ、和議を図ろうとした。京から北東で義晴方の主力となったのは、近江の六角定頼、越前の朝倉孝景、 若狭の武田元光、但馬の山名誠豊らであり、彼らが義晴を軍事的に支えた。そして、その軍事力を背景に、晴元や三好元長らが擁立した堺公方の足利義維に対抗した。 享禄4年(1531年)1月、義晴は従三位・権大納言に昇進した。朝廷の勅使・清原業賢が雪深い朽木に下向し、その宣旨を下したが、その対面時には公家の烏丸光康が申次を務めていた。このように、京と朽木の間では頻繁にやり取りがなされ、公家も京から朽木へとしばしば訪れていた。朝廷や公家もまた、義晴との関係を維持していた。 1月末、湖北地方の浅井亮政が晴元に呼応し、朽木庄のある高島郡を攻めた。そのため、2月1日に義晴は葛川に移り、堅田を経由し、17日に坂本へと入った。その後、六角氏が浅井氏を箕浦で破り、浅井氏の南下を防いだ。
※この「朽木での政治」の解説は、「足利義晴」の解説の一部です。
「朽木での政治」を含む「足利義晴」の記事については、「足利義晴」の概要を参照ください。
- 朽木での政治のページへのリンク