朽木での幕府政治とは? わかりやすく解説

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朽木での幕府政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)

足利義輝」の記事における「朽木での幕府政治」の解説

8月30日、義朽木元綱(稙綱の孫)を頼って近江朽木逃れ、この地を再び御座所にした。そして、以降5年間をこの地で過ごした。だが、義はこの地で六角義賢らの支援得たほか、諸国大名らとも連絡取り合った10月長慶足利義維阿波から上洛させ、新将軍として擁立し、義全面対決姿勢見せていた。だが、長慶結局のところ、義維を上洛させず、また朽木攻めるようなこともしなかった。その後長慶は義味方している大名決し少なくはないことを見て和睦模索したが、義長慶和睦実らず膠着状態続いた。 だが、同月奉公衆石谷光政公家葉室頼房との間で、西庄新坊分をめぐって相論発生した光政前年に義からその安堵受けていたが、頼房は公家山科言継証文用意してもらい、長慶やその家臣提出し審議が行われた結果23日に頼房の訴え認めた。つまり、長慶は義裁許破棄し自身裁許優先させている。このように、義が京を離れている間、京都遠国相論三好氏関与するとなった天文23年1554年2月12日、義朽木滞在中、従三位昇叙するとともに、名を義輝改めている。改名することにより、心機一転図った考えられている。 弘治2年1556年4月義輝朝倉義景加賀一向一揆和平調停行い朝倉氏加賀から撤兵した。この調停に関しては、本願寺義輝依頼した考えられている。加賀本願寺領国であったが、前年朝倉氏侵攻を受け、加賀衆に数千死者出しさらには加賀四郡のうち江沼郡奪われていた。朝倉氏また、大勝はしたものの、その後加賀衆の抵抗受けて攻めあぐねており、指揮官朝倉教景病没する事態発生していた。そこで、朝倉氏加賀衆に苦戦したからというわけではなく、「将軍の上意に応じた」という名分をもって、この和睦飲んで撤兵したのであった本願寺朝倉氏加賀から撤退したことを受け、危機脱することとなり、法主顕如に酒を献じ喜び合った同時に本願寺義輝との連携は役立つと実感し弘治3年1557年4月顕如のもとに細川晴元息女六角義賢猶子として輿入れすることになった晴元と定頼はともに義輝支え存在であり、その息女顕如結婚したということは義輝本願寺同盟したことを意味した。これにより、三好氏支配する京都は、東の義輝側の勢力、西の大阪本願寺、つまり東西から挟撃される可能性帯びた

※この「朽木での幕府政治」の解説は、「足利義輝」の解説の一部です。
「朽木での幕府政治」を含む「足利義輝」の記事については、「足利義輝」の概要を参照ください。

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