朝倉景高とは? わかりやすく解説

朝倉景高(あさくら かげたか) ????~????

○孫八郎 右衛門大夫
◇父:朝倉孫次郎貞景 室:烏丸冬光女 子朝倉景鏡、景次、在重
 越前・朝倉氏一族1517年美濃土岐頼芸敗れて越前逃れてきた土岐政頼支援し総大将として3千の兵を率い美濃攻めるが敗れる。その後朝倉氏要職大野郡司を務めた1540年頃、不和となった兄孝景に背いたことから、国を逐われ、一向一揆結んだという。その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族重鎮宗滴に代わり加賀一向一揆との戦い総指揮をとる。一方で公家の娘を室とし、公家との文化交流盛んな風流人でもあった。

朝倉景高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 07:09 UTC 版)

 
朝倉 景高
時代 戦国時代
生誕 明応4年(1495年
死没 不明
別名 孫八郎、次郎左衛門(通称)
戒名 英岩宗傑
官位 右衛門大夫右兵衛尉、越前国大野郡
主君 朝倉孝景
氏族 朝倉氏
父母 朝倉貞景
兄弟 孝景景高、景郡、景紀、道郷、景延、
大成明玉、北殿、南陽尼寺良玉侍者、
土岐頼武室、鞍谷氏室
烏丸冬光娘
景鏡、景次、存重
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朝倉 景高(あさくら かげたか)は、戦国時代武将越前国朝倉氏の一族。朝倉氏10代当主・朝倉孝景の弟。権中納言・烏丸冬光の娘を妾としており、子の景鏡はその間に生まれたという。

略歴

9代当主・朝倉貞景の次男として誕生。

永正16年(1519年)7月、兵3千を率いて美濃国に出陣、土岐頼芸を擁す斎藤彦四郎の勢力と合戦、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝、土岐頼武の守護職就任に貢献した。大永7年(1527年)頃から大野郡司を務める。天文5年(1536年)、美濃の混乱(土岐頼武と土岐頼芸の守護職争い)に関与し大野郡穴間城を攻略。

しかし、この頃から兄・孝景と不和になり[1]、大野郡司を罷免される。天文9年(1540年)8月上洛し、公家衆や幕府要人に接近、孝景に謀反を企てたが失敗し、翌月、京を追放された(楊弓会事件)。

その後、景高は若狭武田氏の許に身を寄せ、尾張国斯波氏本願寺と連携し越前侵攻の機を窺ったが、結局、天文12年(1543年)4月、若狭を退き、和泉国堺湊から西国に没落した。

系譜

  • 父:朝倉貞景(1473-1512)
  • 母:不詳
  • 側室:烏丸冬光娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:朝倉景次
    • 男子:朝倉在重(1545-1615)

脚注

  1. ^ 父の遺領をめぐる争いがあったと伝わる。



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