越前・朝倉氏とは? わかりやすく解説

越前朝倉氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 00:42 UTC 版)

朝倉氏」の記事における「越前朝倉氏」の解説

越前朝倉氏は南北朝時代足利氏一族である斯波氏仕えた朝倉広景から始まる。通字は「景(かげ)」。 次代朝倉高景斯波高経仕えて、高経が守護任じられ越前国所領与えられた。高経が室町幕府によって越前守護を追われ討伐された貞治の変の際には、幕府軍寝返って所領安堵されている。その後外来武士ながら越前国定着して勢力築いた斯波氏越前守護に復帰する帰参するが、既に越前勢力築いていた朝倉氏存在斯波氏無視する事は出来ず室町時代に入ると、甲斐氏織田氏とともに守護代に任ぜられるようになった室町時代後期に入ると、朝倉孝景(英孝景)は守護代甲斐常治とともに、主である斯波義敏対立して長禄合戦引き起こした足利将軍家家督争いなどから発展した応仁の乱では、山名宗全率い西軍から細川勝元率い東軍寝返った越前では甲斐氏圧迫して国内をほぼ統一し斯波氏に代わって越前国守護取り立てられた。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定し戦国大名としての朝倉氏初代となった軍記物朝倉始末記』によると、孝景が1471年文明3年)に一乗谷城築いたとされる近年では、15世紀前半には朝倉氏一乗谷移っていたとの見解出されている。それ以前朝倉氏本拠としていた黒丸については、坂井郡三宅黒丸(現・福井県福井市三宅町)説のほか、足羽郡北庄黒丸(現・福井市中央)説がある。 旧主斯波義敏越前守護職を回復せんと朝倉氏越前実効支配について幕府異議申し立てると、孝景は、かつて守護であった斯波義廉の子鞍谷公方足利義持の弟、足利義嗣の子・嗣俊を祖とする。足利将軍家越前における分家鞍谷御所呼ばれて尊崇集めていた。)の養子として足利義俊と名乗らせた上で幕府反対押し切ってこの義俊を"名目上越前国主"として擁立越前守護の斯波氏対抗した。後に朝倉氏自体越前守護に任じられることとなったため、鞍谷公方足利氏朝倉氏客将化し朝倉氏名実ともに同国大名となった(ただし、異説として鞍谷公方後世の創作で、実は奥州斯波氏嫡流に近い斯波氏庶流斯波氏宗家準じた家格を持つ家であったとする説もある)。 戦国時代には早期から越前一国安定的に支配し、その余勢隣国若狭加賀近江美濃にも出兵した。謀反殺され室町幕府第13代将軍足利義輝の弟である足利義昭落ち延びて来ると、第11当主朝倉義景はこれを庇護した。だが義昭擁しての上洛はせず、代わってそれを実行した尾張国織田信長京都政権掌握した後に従うこともしなかった。義景は浅井長政らと同盟して信長と度々戦ったが、1573年天正元年)に敗れて一乗谷焼かれ、義景は自刃戦国大名としての朝倉氏滅んだ。 越前朝倉氏の一族称する朝倉在重徳川家仕え、子の宣正は徳川忠長附家老掛川城主になるが、忠長改易連座して宣正も改易となった。宣正の弟の家は江戸幕府旗本として存続した。

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