越前平定戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:03 UTC 版)
「朝倉孝景 (7代当主)」の記事における「越前平定戦」の解説
ところが、孝景は魚住景貞を窓口として東軍の浦上則宗と密かに接触し、文明3年(1471年)5月21日、将軍・義政及び細川勝元から守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返る(同陣営となった義敏は義政の命令で中立を保つ。代わりに松王丸と義敏の父斯波持種を擁立)。この寝返りにより東軍が圧倒的優位になり、応仁の乱は終息へ向かう。東軍陣営の権威を背景に、孝景は越前の実効支配による領国化を進める。当初は苦戦するも、やがて連勝を重ねて実力で越前一国をほぼ手中に収め(下記「戦歴」参照)、斯波氏に代わり越前守護に任じられる。しかし、甲斐敏光や二宮氏、元服して義寛と改名した松王丸らの反撃を受け、一時苦境に立たされる中、文明13年(1481年)、54歳で死去する。 嫡男の氏景がその跡を継ぎ、3人の叔父経景・景冬・光玖の助力を得て、越前を統一した。 従来、一乗谷を朝倉氏の本拠としたのは孝景であると言われていたが、これは『朝倉始末記』という流布本にのみ記載されているもので、他に根拠はない。『親元日記』などの史料により、かなり以前から朝倉氏が一乗谷に根拠を持っていたことが判明している。 また、分国法である「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)を制定したとされているが、これにも一部から疑義が呈されている。
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