越前松平家の統治時代とは? わかりやすく解説

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越前松平家の統治時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:44 UTC 版)

高田藩」の記事における「越前松平家の統治時代」の解説

入れ替わる形で松代より元和5年1619年)、松平忠昌259000石で入る。忠昌は結城秀康家康次男で忠輝の異母兄)の次男である。元和9年1623年5月越前福井藩継いでいた長兄松平忠直不行跡理由改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐこととなり、福井藩主となる。 寛永元年1624年)、高田には忠直嫡男千代(のちの松平光長)が26万石与えられ新規に立藩し、傍目には叔父と甥入れ替わるという形となった。仙千代第3代将家光から偏諱拝領し光長と名乗り越後守従三位に列せられたなお、光長は若年だったため、家老小栗美作らが藩政取り仕切った小栗らは河村瑞賢招聘しての殖産興業中江用水建設魚沼銀山開発領内各地新田開発、などにより藩の増収図り表高26万石実高40万石にまで押し上げたとされている。寛文5年1665年12月26日大積記録し、翌27日には寛文大地震発生し、これにより本丸崩れ家中男女合わせて120名が死亡2人家老死亡した。光長自身江戸にいて無事だったが、翌正月に緊急帰国した。なお、これにより藩政は完全に小栗美作一人掌握するところとなった。この地震災害復興として、小栗ら藩首脳城下町区画整理などを行い震災損壊した高田城修復行った。 ところが、藩内、特に一族重臣の間で光長の跡継ぎを巡る御家騒動いわゆる越後騒動勃発する延宝2年1674年)に光長の嫡男綱賢が早世したことをきっかけに、小栗美作永見大蔵(光長の異母弟)の二者筆頭とする派閥による藩政主導、および後継者を巡る争い混乱極め幕府介入および裁断を仰ぐこととなった延宝7年1679年9月大老酒井忠清裁定により表面上、一旦は収束された。ところが、延宝8年1680年)に将軍家綱が死去して5代将軍綱吉就任すると、綱吉による異例将軍直裁による再審議により、(綱吉嫌っていた酒井忠清がこの騒動関与裁定していたため、酒井決定綱吉覆したともされている)、光長の高田藩改易処分となった。この印象悪化以降高田藩は「懲罰的転封先」とされることが多くなった。

※この「越前松平家の統治時代」の解説は、「高田藩」の解説の一部です。
「越前松平家の統治時代」を含む「高田藩」の記事については、「高田藩」の概要を参照ください。

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