越前松平家の統治時代
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入れ替わる形で松代より元和5年(1619年)、松平忠昌が25万9000石で入る。忠昌は結城秀康(家康の次男で忠輝の異母兄)の次男である。元和9年(1623年)5月、越前福井藩を継いでいた長兄の松平忠直が不行跡を理由に改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐこととなり、福井藩主となる。 寛永元年(1624年)、高田には忠直の嫡男仙千代(のちの松平光長)が26万石を与えられて新規に立藩し、傍目には叔父と甥が入れ替わるという形となった。仙千代は第3代将軍家光から偏諱を拝領し光長と名乗り、越後守と従三位に列せられたなお、光長は若年だったため、家老の小栗美作らが藩政を取り仕切った。小栗らは河村瑞賢を招聘しての殖産興業や中江用水の建設、魚沼銀山の開発、領内各地の新田開発、などにより藩の増収を図り、表高26万石を実高40万石にまで押し上げたとされている。寛文5年(1665年)12月26日に大積雪を記録し、翌27日には寛文の大地震が発生し、これにより本丸が崩れ、家中男女合わせて120名が死亡、2人の家老が死亡した。光長自身は江戸にいて無事だったが、翌正月に緊急帰国した。なお、これにより藩政は完全に小栗美作一人が掌握するところとなった。この地震の災害復興として、小栗ら藩首脳は城下町の区画整理などを行い、震災で損壊した高田城の修復も行った。 ところが、藩内、特に一族重臣の間で光長の跡継ぎを巡る御家騒動、いわゆる越後騒動が勃発する。延宝2年(1674年)に光長の嫡男綱賢が早世したことをきっかけに、小栗美作と永見大蔵(光長の異母弟)の二者を筆頭とする派閥による藩政主導、および後継者を巡る争いは混乱を極め、幕府の介入および裁断を仰ぐこととなった。延宝7年(1679年)9月に大老酒井忠清の裁定により表面上、一旦は収束された。ところが、延宝8年(1680年)に将軍家綱が死去して第5代将軍綱吉が就任すると、綱吉による異例の将軍直裁による再審議により、(綱吉が嫌っていた酒井忠清がこの騒動に関与・裁定していたため、酒井の決定を綱吉は覆した、ともされている)、光長の高田藩は改易処分となった。この印象悪化以降、高田藩は「懲罰的な転封先」とされることが多くなった。
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