越前松平氏家臣多賀谷氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 06:19 UTC 版)
一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で3万2千石を領した。三経の一族は1616年(元和2年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は存続しており、須原屋版武鑑でも散見できる。泰経に養子の経政がいたがこれは家督を継がなかったために、家は一旦断絶するが、経政の子がのちに福井藩支族の前橋松平家に仕官し、重臣として続いている。前橋松平家は結城秀康の子の松平直基より始まる。直基は福井藩に属していた結城晴朝に養育され、慶長12年(1607年)に結城氏の家督を相続した。慶長19年(1614年)に晴朝が死去したため、その隠居料である5千石を相続する。寛永3年(1626年)からは松平姓を称したが、以降この家の子孫は家紋は結城家のもの(結城巴、太閤桐)から変えなかった。すなわち多賀谷氏は結城氏の元で存続した、となる。 一方で福井藩に残留した子孫もいるようであり、『武鑑』においては福井藩士として弘化年中や慶応年中の福井藩番頭や用人に『多賀谷舎人』が見える。前橋松平家中では松平義知の年寄に『多加谷内膳』、松平直侯の重臣に『多賀谷左近』、『多賀谷伊織』など年寄や家老級の重臣として多賀谷氏または多加谷氏がしばしば登場する。
※この「越前松平氏家臣多賀谷氏」の解説は、「多賀谷氏」の解説の一部です。
「越前松平氏家臣多賀谷氏」を含む「多賀谷氏」の記事については、「多賀谷氏」の概要を参照ください。
- 越前松平氏家臣多賀谷氏のページへのリンク