越前発祥の大隅伊知地氏とは? わかりやすく解説

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越前発祥の大隅伊知地氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/31 01:20 UTC 版)

伊地知氏」の記事における「越前発祥の大隅伊知地氏」の解説

祖は桓武天皇7代の子孫である秩父氏の祖・秩父将恒(平将恒)で、越前国伊知地(現・福井県勝山市伊知地)を領したことから伊地知氏称した。将恒より13の子伊地知季随島津氏5代貞久と同番の足利尊氏内臣であったが、尊氏によって罪人とされたのを貞久執り成しにより許され、その貞久許し得て薩摩国下向すると、その臣下となって共に下向その際に下大隅拝領したのが大隅国土着する始めとなった伊地知氏島津氏への忠義篤く貞久の子大隅守護である氏久が正平6年/観応2年1351年)に足利直冬軍と戦った際、季随は氏久の身代わりとなって筑前国金隈現・福岡県福岡市博多区金隈)にて戦死している。その子の季弘は今川了俊肥後国水島(現・熊本県菊池市七城町)に陣を布いた際には氏久に同行しその子季豊は島津8代当主豊の家老務め、その孫の重周も島津12忠治家老その子重武も島津14代勝久の家老であった。 ところが、重武の子重興宗家継いだ島津15代貴久に臣従したものの、永禄年間肝付氏禰寝氏結んで反旗を翻した。しかし、禰寝氏島津方に寝返るなど戦況悪化一途辿り重興肝付氏と共に先非悔いて剃髪した上で島津氏降伏したその後島津氏家臣となったが、文禄3年1594年)に孫の重順が勘気被り詳細不明)重順は浪人となる。ただし慶長6年1601年)、高野山在住していたところを上洛した島津18代忠恒(後の家久)に召されたことで、家臣への復帰がなったその後嫡流のみは先祖秩父姓を名乗った

※この「越前発祥の大隅伊知地氏」の解説は、「伊地知氏」の解説の一部です。
「越前発祥の大隅伊知地氏」を含む「伊地知氏」の記事については、「伊地知氏」の概要を参照ください。

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