越前編(第18回 - 第27回)
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「麒麟がくる」の記事における「越前編(第18回 - 第27回)」の解説
越前での光秀らは義景の援助を受けず、細々と暮らすこととなる。父・信秀の死後、信長は守護代・織田彦五郎や弟・織田信勝らとの争いに勝ち尾張を平定しつつあったが、永禄3年(1560年)に今川義元率いる大軍が駿河から迫り窮地に追い込まれる。光秀はかつて尾張で出会った松平元康(のちの徳川家康)を織田方に引き込もうとするが、元康は今川家からの離反を拒む。しかし、元康が進軍を遅滞させたことにより今川軍本隊が手薄となり、桶狭間の戦いで信長は義元を討ち取ることに成功する。凱旋する信長のもとに現れた光秀はこれから先のことを聞くと、信長は美濃を征服する事のみを語り笑みを浮かべた。 一方、京では孤立無援となった義輝は憔悴し、光秀は信長を上洛させることでこれを打開しようとする。しかし光秀の奔走虚しく、永禄7年(1564年)に義輝は三好家の手によって暗殺されることとなる。三好家が関白・近衛前久に圧力をかけ次期将軍を擁立しようとする中、義景は光秀に義輝の弟・覚慶が将軍となる器かどうかを確認させた。大和で弱々しい覚慶を見た光秀は、義景には将軍の器ではないと報告する。一方で美濃を攻略した信長だったが、今後の目標をいかにするか迷っていた。光秀は将軍を担いで京に上洛し、室町幕府を再興することで「大きな国」を実現させることを勧める。越前に逃れた覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、上洛のため光秀に義景の説得を依頼する。貧しい人々を救うための情熱を知った光秀は、義景に義昭とともに上洛するように進言する。一時はその気になった義景だが、いとこ・朝倉景鏡や重臣らに上洛を反対されたことで決断を下せずにいた。早期の上洛を求める義昭側近・三淵と朝倉家家老・山崎吉家らの利害が一致し、義景の嫡子が毒殺される。これにより義景は放心状態に陥り、その隙に光秀と義昭らは美濃に移って信長のもとでの上洛を果たす。
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