越前葛野藩主
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元禄9年(1696年)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、松平頼久(よりひさ)と名乗る。同時に兄の頼職も従四位下左近衛権少将兼内蔵頭に任じられている。翌元禄10年(1697年)4月、紀州藩邸を訪問した第5代将軍徳川綱吉に御目見し、越前国丹生郡内に3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を頼久から松平頼方(よりかた)と改めた。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、高森藩主となっている。 父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。なお、葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていたと言われている。同地では「紀州領」と呼ばれていた。派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士である。
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