朝倉景豊とは? わかりやすく解説

朝倉景豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 06:24 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
朝倉景豊
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 文亀3年4月3日1503年4月28日
別名 孫四郎(通称)
主君 朝倉貞景
氏族 朝倉氏
父母 朝倉景冬
兄弟 景豊朝倉宗滴正室、堀江景実室、
鳥羽景富室、青蓮華近江守室
朝倉景総
九郎兵衛、春蘭軒
テンプレートを表示

朝倉 景豊(あさくら かげとよ)は、戦国時代武将朝倉氏の家臣。

生涯

朝倉景冬の唯一の男児で、明応4年(1495年)9月の父の没後、敦賀郡司職を継ぐ。景豊の姉妹は朝倉教景(宗滴)堀江景実、鳥羽景富、青蓮華近江守ら朝倉一族に嫁いでいた。また、義父である朝倉景総は、当時、越前国を離れ京で管領細川政元に仕えていた。景総は景豊に対し、義兄弟の力を借りて、朝倉宗家に謀叛を起こすよう唆し、景豊もこの企てに同意した。

景総の軍勢は近江国から越前へ向かい、越前国内では景豊とその義兄弟の軍勢が蜂起する手筈であったが、義兄弟達は誰もこの企てに乗らず、そのうちの一人・朝倉教景(宗滴)は文亀3年(1503年)3月晦日、直ちに謀叛の企てを朝倉氏9代当主・朝倉貞景に注進した。貞景は数千騎を率いて敦賀に向かい、4月3日、景豊の居城敦賀城を完全に包囲した。景総の軍勢到着も間に合わず、景豊は包囲軍と合戦の後、自害して果てた。

なお、男児が二人(九郎兵衛、春蘭軒)いたが助命されたようである。

出典





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朝倉景豊」の関連用語

朝倉景豊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝倉景豊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの朝倉景豊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS