毛利家臣時代
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一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となる。大友宗麟との多伏口の合戦において博多の町衆に堀70日分の工事を命じるなどの活動が散見される。永禄11年(1568年)の大友家との合戦では恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献した。 元亀2年(1571年)6月には毛利元就の書状を携えて上京し、室町幕府将軍・足利義昭に対して大友家・浦上家・三好家との和議の斡旋を依頼したが、義昭が三好との調停に難色を示し不調に終わった。しかし、翌元亀3年(1572年)には三好を除いた大友・浦上との講和については義昭が了承し、再度上京して10月には大友・浦上両家との和議の斡旋に成功した(『萩藩閥閲録』)。 天正元年(1573年)、織田信長によって京都を追放された義昭はいったん枇杷庄(現京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移り、11月5日には和泉国の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この会談には毛利氏使者として恵瓊も参加した。しかし、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂、このとき、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望している。 天正4年(1576年)に足利義昭が備後国鞆に移ってきたあとも、宇喜多直家と断交し織田信長と結ぶべきと主張していたが受け入れられなかった(『巻子本厳島文書』)。 天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。 天正11年(1583年)8月22日、毛利輝元の家臣に送った手紙で老母の罹病を理由に恵瓊が境目についての会合に不参加を表明している。公務を投げ出しても母を看取り、その危機を救うのが一般的な当代の母子の実像であった。 また、本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。
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毛利家臣時代
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弘治3年(1557年)4月3日に大内義長が自害して大内氏が滅ぶと、小野清資と俊久は福原貞俊を仲介として毛利元就に服属し、同年8月18日に本領を安堵された。正確な年は不明だが、永禄5年以前の3月18日に、福原貞俊から「俊」の偏諱を貰い受け、名を「矩資」から「俊久」へ改めた。 永禄5年(1562年)9月3日、妻が懐妊したことを市川経好に報告し、男子の場合はもちろん、女子の場合でも所領を譲り、養子の俊賢(当時3歳で名は慶千代丸)を名代とすることを取り決めた。また同年に、俊久は天野隆重や中村就久らと共に豊前国松山城の守備に就き、の大友氏による松山城攻撃を負傷しつつも防いだ。永禄6年(1563年)1月2日に松山城籠城の功を毛利隆元に賞された。同年1月4日には福原貞俊からも籠城の労を辛労を賞され、天野隆重とよくよく相談するようにとの旨の書状を受け取る。 永禄10年(1567年)5月4日、毛利隆元の證判の旨に任せて、長門国厚狭郡末益名の本領を毛利輝元から安堵された。同年5月7日には養子の俊賢が福原貞俊の加冠を受け、俊久が筑前国の宝満山城に入場することとなったため、同年10月13日、俊賢に小野家の家督と鎌倉時代以来の代々の証文を譲与し、俊久はその後も各地を転戦した。 慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの前哨戦として徳川家家臣・鳥居元忠の籠もる伏見城への攻撃が行われた。この戦いに毛利家からは吉川広家、小早川秀包、毛利元康、堅田元慶らが参戦しており、これに俊久も加わったが、伏見城が落城した8月1日に俊久も戦死した。 家督を譲っていた養子の俊賢は早くに死去したため、天正4年(1576年)に生まれていた実子の俊資が跡を継いだ。
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