毛利家改易の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:46 UTC 版)
10月2日になって黒田長政から以下の内容の書簡が届いた。 家康からの毛利領安堵の密約は、輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。ところが大坂城から発見された西軍の連判状の数々に輝元の花押があった。困った事だ。毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう。 貴殿の忠節は井伊直政、本多正信もよく承知しており、毛利領のうち一、二ヶ国を与えるべく、ただいま家康に対して交渉中である。 直政に呼ばれたら、すぐに行って下さい。お供は数人で十分で、槍などは無用です。これは決して罠ではありません。 毛利宗家の本領安堵は反故とされ、その後、広家には周防・長門の2ヶ国を与えるとの沙汰があった。 広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のために家康に以下の内容の起請文を提出した。 私に対する御恩顧は後世まで決して忘れませんが、何卒毛利家という家名を残して戴きたく御願い申し上げます。 この度のことは輝元の本意ではありません。輝元が心底人間が練れてなく分別がないのは、各々ご存知のことではないですか。 輝元は今後、家康様に忠節を尽くしますから、どうかどうか毛利の名字を残して下さい。 輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たないので、私にも輝元と同じ罰を与えて下さい。 もし、有り難くも毛利の家を残していただけたなら、輝元はこの御恩を決して忘れません。 千が一万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出す覚悟でございます…云々。 広家のこの起請文に対し家康は10月10日になって、輝元に対し広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること、毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障する、旨の起請文を発行した。 広家の行動そのものは合戦前の7月15日に秀元や安国寺恵瓊の方針に不安を抱く福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議の結果を受けたものであるが、移封後は毛利家の家政の第一線から退くことになる。 毛利宗家では関ヶ原後、安芸国ほか山陽・山陰8か国112万石から防長2か国29万8千石への減封による減収を補うため、領内の徹底した検地に着手するが、山代慶長一揆、吉見広長の反乱など、減封に伴う混乱が起こっている。慶長15年(1610年)に毛利宗家(長州藩)は幕府の承認を得て、36万9千石に高直しが認められた。
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