防長減封と出家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
9月27日、輝元と入れ替わる形で、家康が大坂城西の丸に入城した。その後、大坂城では輝元の花押が押された書状が多数押収され、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、実際には総大将として西軍を指揮していたことが明らかとなった。 10月2日、家康は広家の説明が事実ではなかったことを理由として、輝元と交わした所領安堵の約束を反故にし、「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」とした。そして、家康は輝元を改易した上で、改めて広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。 しかし、広家は本家を見捨てることができず、10月3日に輝元が西軍の首謀者でないことを改めて弁解するとともに、周防・長門2ヶ国は輝元に与えるよう嘆願した。井伊直政もまた、家康に起請文を破ることへの不義を訴えたため、家康も輝元の処遇を考え直した。 10月10日、家康の命により、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8千石に減封され、輝元が保持していた祖父以来の領地も多くが失われた(防長減封)。結局、輝元が隠居することにより、秀就が周防・長門2ヶ国を安堵される形で決着し、毛利氏の改易は避けられた。 同月、輝元は剃髪し、法名を幻庵宗瑞(げんあん そうずい)と称した。そして、嫡男の秀就に家督を形式的に譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま、実質的な当主として藩に君臨し続けており、秀就との二頭体制が敷かれた。 また、輝元は豊臣期末には自らを頂点とし、佐世元嘉、二宮就辰、榎本元吉、堅田元慶、張元至ら様々な出自を持つ5人の輝元出頭人が領国統治を主導するという、一元的支配を構築しつつあった。だが、江戸時代になると、輝元が本国に在国し、一方の秀就は江戸に在国ということが多くなるという二頭体制により、江戸幕府との折衝が豊臣期よりも重要性が増した。そのため、支配機構も変化を余儀なくされ、国許に在国して輝元を支える役職と、藩主・秀就に随従する役職の二元構造に移った。
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