防長経略と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 04:26 UTC 版)
弘治元年(1555年)、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、大内義興の外孫とはいえ外様出身で、一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。 義長は兄・義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無い事を元就に約していたという。 こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で弘治3年(1557年)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄し重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走した。しかし、すぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に4月3日に自害した。享年26。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。 義長の死により西国の名門大内氏は滅亡したが、後に大内輝弘が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている(大内輝弘の乱)。また、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代に大名として存続した。 義長没後の弘治3年(1557年)5月14日、毛利元就は大友義鎮に対して大内家復興に関する所存を求めたが、義鎮は大内家の断絶を勧めて復興を拒絶している。永禄2年(1559年)には将軍・足利義輝が義鎮に対して、九州探題の職と共に大内氏の家督継承を認める御内書を発給している。
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