江戸での証人生活
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関ヶ原での敗戦後は毛利氏の防長移封に従うも、徳川家康は関ヶ原前後の元慶の行動は安国寺恵瓊と同じであるとして元慶の処刑も考えていた。しかし、井伊直政や本多正信、榊原康政らの執り成しにより一命を助けられ、慶長6年(1601年)9月から輝元の嫡子毛利秀就と共に証人(人質)として江戸に住むこととなる。 輝元は福原広俊に命じて本多正信に対して、元慶を今後は特別な重臣ではなくただの一家臣として扱うので元慶を赦免してほしいと求めたが、その後元慶が死去するまでの約20年の長きに渡って赦免されることはなかった。もっとも、慶長8年(1603年)から元和5年(1619年)までの間に少なくとも10回ほど一時帰国が許されており、熱海に湯治に赴いたり鎌倉に出掛けたりもしている等、ある程度の自由が与えられていたようである。しかし、元慶は一度帰国するとなかなか江戸に戻って来ないことがあったため、本多正信は国元にいる元慶の家族を江戸へ送ることを求めている。元慶の室は病気がちだったためか当初は江戸行きを渋っていたが、この出来事を家の大事と考えた輝元の説得により了承した。関ヶ原後の堅田家は所領を6000石ほどに削減されたが、その代わり元慶が江戸に詰めている間は軍役と普請役を減免されていた。 江戸にいる間の元慶は日頃から幕府年寄や譜代大名・旗本らと親しく交際し、毛利家に対する心証を良くしようと努めていた。輝元によれば元慶はやや気短な所があったらしく、本多正信らとの間が上手くいってるか心配しているが、元慶は正信が鷹狩に出向いている先にまで音信物を届けるなど、正信に対して細心の配慮を尽くしていた。また、証人となって以後も、輝元との個人的な近さによって毛利家における一定の地位を保っており、一時帰国をした国元にいる間は、他の家臣と輝元の間の取り次ぎや、輝元の意を家中に伝える奉書への加判などを行っている。 慶長15年(1610年)、元慶は以前から懇意にしていた周防国山口の瑠璃光寺の元住持秀山を誘い、江戸に瑠璃光寺を創建した。 輝元は元慶が江戸に行く当初から何度も赦免と帰国許可を願い出ていたが、元和5年(1619年)末から元和6年(1620年)初にかけて行われた交渉も不調に終わった。元慶と親しく、幕府年寄への取り次ぎを行った柳生宗矩の書状によれば、土井利勝は赦免に理解を示したものの、本多正純は帰国中の毛利秀就が江戸に出府してからでなければ元慶の帰国は認められないと主張したため、帰国の願い出は認められなかったという。 その後、秀就が江戸に出府したが、元和6年(1620年)3月頃に元慶は発病し、熱海での湯治は認められたものの元慶の帰国は実現することはなく、元和8年(1622年)9月27日に江戸で死去した。享年55。元慶の墓所は山口県周南市湯野の堅田家墓所と、東京都港区の瑠璃光寺にある。 その後、江戸に住まわされていた元慶の妻子は、元和9年(1623年)に帰国が許されている。 嫡男の就政は、幼少のため所領を周防国都濃郡の湯野村・戸田村・莇地村と長門国大津郡日置村の4500石に減転封され、寛永2年(1625年)周防国湯野(現在の周南市湯野。湯野温泉付近)に移住した。子孫は同地で明治維新を迎えている。
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