江戸での証人生活とは? わかりやすく解説

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江戸での証人生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 07:39 UTC 版)

堅田元慶」の記事における「江戸での証人生活」の解説

関ヶ原での敗戦後毛利氏防長移封に従うも、徳川家康関ヶ原前後元慶行動安国寺恵瓊と同じであるとして元慶処刑考えていた。しかし、井伊直政本多正信榊原康政らの執り成しにより一命助けられ慶長6年1601年9月から輝元の嫡子毛利秀就と共に証人人質)として江戸に住むこととなる。 輝元は福原広俊命じて本多正信に対して元慶今後特別な重臣ではなくただの一家臣として扱うので元慶赦免してほしいと求めたが、その後元慶死去するまでの約20年長き渡って赦免されることはなかった。もっとも、慶長8年1603年)から元和5年1619年)までの間に少なくとも10回ほど一時帰国許されており、熱海湯治赴いた鎌倉出掛けたりもしている等、ある程度の自由が与えられていたようである。しかし、元慶一度帰国するとなかなか江戸に戻って来ないことがあったため、本多正信国元にいる元慶家族江戸へ送ることを求めている。元慶の室は病気がちだったためか当初江戸行きを渋っていたが、この出来事を家の大事と考えた輝元の説得により了承した関ヶ原後の堅田家は所領6000石ほどに削減されたが、その代わり元慶江戸詰めている間は軍役普請役減免されていた。 江戸にいる間の元慶日頃から幕府年寄譜代大名旗本らと親しく交際し毛利家対す心証良くしようと努めていた。輝元によれば元慶はやや気短な所があったらしく、本多正信らとの間が上手くいってるか心配しているが、元慶正信鷹狩出向いている先にまで音信物届けるなど、正信に対して細心配慮尽くしていた。また、証人となって以後も、輝元との個人的な近さによって毛利家における一定の地位保っており、一時帰国をした国元にいる間は、他の家臣と輝元の間の取り次ぎや、輝元の意を家中伝え奉書への加判などを行っている。 慶長15年1610年)、元慶以前から懇意にしていた周防国山口瑠璃光寺の元住持秀山誘い江戸瑠璃光寺創建した。 輝元は元慶江戸に行く当初から何度も赦免帰国許可願い出ていたが、元和5年1619年)末から元和6年1620年初にかけて行われた交渉不調に終わった元慶親しく幕府年寄への取り次ぎ行った柳生宗矩書状によれば土井利勝赦免理解示したものの、本多正純帰国中の毛利秀就江戸出府してからでなければ元慶帰国認められない主張したため、帰国願い出認められなかったという。 その後、秀就が江戸出府したが、元和6年1620年3月頃に元慶発病し熱海での湯治認められたものの元慶帰国実現することはなく、元和8年1622年9月27日江戸で死去した享年55元慶墓所山口県周南市湯野堅田家墓所と、東京都港区瑠璃光寺にある。 その後江戸に住まわされていた元慶妻子は、元和9年1623年)に帰国許されている。 嫡男の就政は、幼少のため所領周防国都濃郡湯野村戸田村莇地長門国大津郡日置村の4500石に減転封され、寛永2年1625年周防国湯野現在の周南市湯野湯野温泉付近)に移住した子孫同地明治維新迎えている。

※この「江戸での証人生活」の解説は、「堅田元慶」の解説の一部です。
「江戸での証人生活」を含む「堅田元慶」の記事については、「堅田元慶」の概要を参照ください。

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