江戸での収拾策
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幕府のお膝元である江戸の場合、打ちこわし最盛期の天明7年5月22日((1787年7月7日)、幕府は困窮者に対するお救いの実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は町奉行に対し支援を要する人数の確認を指示した。町奉行は支援対象者を362000人と見積もり、一人につき米一升の支援を要するとした。町奉行からの報告を受けた水野忠友は天明7年5月23日((1787年7月8日)、勘定奉行に対して二万両を限度として支援対象者一人当たり銀三匁二分を支給するよう指示し、天明7年5月25日(1787年7月10日)には実際にお救い金として町方に引き渡された。また天明7年5月24日((1787年7月9日)からは米の最高騰時の約半額で米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは給付されたお救い金で米を購入することができるようになった。 江戸においても激しい打ちこわし勃発の最中に、各町内で寄合が開かれ困窮者に対する施行が始められた。これは町内で家持ちの商家や周辺の大商人などが資金を提供し、困窮者に対する支援を行う動きであり、打ちこわし沈静化後に本格化することになる。この町内での施行の動きに対しては町奉行所から実行状況について調査がなされ、施行を行うように指示もなされた。施行の難点としては資力がある大商人が多い江戸中心部では支援の手が厚くなり、逆に周辺部ではどうしても手薄になってしまうという面があった。天明7年(1787年)11月には施行に尽力した関係者、町に対して褒賞がなされ、総額547両あまりの褒賞金が支払われた。これはかつてない規模となった施行に対する褒賞という意味合いがあり、褒賞金の総額もこれまでで最大となった。 江戸打ちこわしの結果、困窮した人々に対する対応策が実施されるようになったが、江戸の食糧問題はまだ完全解決には程遠かった。まず第一の問題として、江戸で発生した大規模な打ちこわしの結果、江戸へ向かっていた米の流通がストップしてしまったことであった。そして米価高騰で利益を挙げることをもくろんだ商人、更には武家などが隠匿していた米を流通させるため、天明7年6月2日(1787年7月16日)には武家、町方、寺社に限らず米の隠匿を禁じ、市場に放出するよう命じる触れが出されたが、取り締まる町奉行所役人に対して米の隠匿を行っている人々が贈賄して取り締まりを免れるといった事態が発生し、江戸では思ったように市場に米が流通しない状態が続いた。米の流通が滞っては再び打ちこわしが発生する恐れがあり、幕府としてはさらに思い切った対策を立てる必要があった。 天明7年6月8日(1787年7月22日)、関東郡代の伊奈忠尊は勘定所吟味役上首格から小姓番頭格に昇格し、江戸町方の救済を行うよう命じられた。これは主として代々関東郡代として実績を挙げていた伊奈氏が、米不足が続く江戸に大量の米を集める最適任者であると判断されたこと、さらには本来町奉行所が主導すべき困窮者の救済であるが、打ちこわし時の不手際から民衆から反発を受ける可能性が高かったことなどによると考えられる。伊奈忠尊は早速江戸町中の名主を召集して伊奈による町方救済の支援を要請し、更に町方救済のために交付された20万両で、関東地方のみならず甲斐、信濃そして奥州まで部下を派遣して米を買い集め、大量の米を迅速に江戸に集めた。早くも天明7年6月18日(1787年8月1日)には、伊奈によって買い付けられた米が江戸の各町内へ分配が始まり、関東郡代の伊奈忠尊による江戸町民用の米の大量確保は江戸の不穏な情勢緩和に繋がった。しかし江戸以外の場所でも広く食糧不足の状態が見られる中で、伊奈が江戸向けの米を大量に買い占めた結果、一種の飢餓輸出を行ったことになり、江戸での事態沈静化に大いに貢献した伊奈の活躍は、地方では逆に事態の悪化を招く場合もあった。 そして町奉行の曲淵景漸は、打ちこわし発生前の町方からの嘆願に真摯な対応を行わずに大騒動のきっかけを作った点と、打ちこわし発生時の対応が及び腰であったことが咎められ、江戸城西丸御留守居役に左遷された。また南町、北町領両行所の与力の総責任者である年番与力に対し、ともに江戸追放、お家断絶の処分が下された。天明の江戸打ちこわしにおける幕府役人の処分者は町奉行の曲淵景漸と南町、北町両奉行所の年番与力の計三名とされている。
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