江戸での晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 08:49 UTC 版)
前述の『秦曲正名閟伝』によれば重賢は芸に関して元々高い才能を持っていたが、(あるいは『素謡世々之蹟』が記す「気まま」な性格ゆえか)努力を怠っていた。ところが50歳を迎える頃から、一念発起して芸道に打ち込んだとされる。 1707年(宝永4年)、50歳の重賢は京を去って再び江戸に戻る。また時期は不明だが出家して、以後「服部周雪」を名乗った。観世家内では前大夫として、相応の待遇を受けていたらしい。 1724年(享保9年)、将軍・吉宗に召され、江戸城西丸で「葛城」を舞う。67歳、隠居の身での出勤は極めて異例のことであった。 この出演のあとも周雪(重賢)は長寿を保つ。老境に入って以後、毎年の正月には祝言小謡を創作することを習慣とし、その小謡18曲は「周雪作小謡集」としてまとめられている。また現存する型付からは、弟子への指導も行っていたことが窺える。ただし1730年(享保15年)頃にはすでに目を患っており、晩年には盲目であったらしい。 1746年(延享3年)4月23日、病のため死去。89歳。『秦曲正名閟伝』には50歳以降の精進の結果、「晩節乃其妙を得たり」とある。
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