江戸に戻って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
足かけ7年に及ぶ西国俳諧修行の旅によって、一茶に実力がついたのは確かであった。寛政12年(1800年)頃に大坂、京都の俳人が世話人となって出版された全国俳人番付で、一茶は葛飾派の中で唯一、番付に名が載せられた。番付内の位置はまだまだ下位ではあったが、関西の発行元であったこともあり、この番付自体に江戸の俳人は17名しか掲載されておらず、一茶を江戸在住の俳人の中の有力者、中でも葛飾派の代表者として見る向きもあったことがわかる。一茶は寛政11年(1799年)には正式に二六庵を継いだと考えられている。しかしまだ30代の一茶が急速に葛飾派内で頭角を現してきたことに、派内に妬みや不満、反発を買うことになった。実際、二六庵の名乗りはわずか2年余り、享和元年(1801年)を最後に消えてしまう。つまり一茶はわずか2年あまりで二六庵を名乗ることが許されなくなったのである。これは享和2年(1802年)に葛飾派の宗匠となった白芹が一茶を敬遠し、二六庵の称号を名乗ることを禁じたのではないかとの説がある。 一方、6年余りの西国俳諧修行の旅を終え、大坂を中心とした関西の比較的自由な俳壇を体験した一茶にとっても、閉鎖的な葛飾派のあり方に飽き足らなくなっていった。ほどなく一茶は葛飾派の枠をはみ出して夏目成美らとの親交を深め、一茶独自の俳句世界を作り上げていくことになる。 寛政11年(1799年)11月、長年一茶の親友であり、下総方面に行く際に最も多く立ち寄り、俳句で身を立てようと志した一茶を当初から庇護してくれてきた馬橋の大川立砂が急死する。一茶は立砂を看取り、 炉のはたやよべの笑ひが暇ごひ と詠んだ。長年一茶に目をかけてくれた立砂への深い敬慕の思いを表現したこの句は、一茶の特徴のひとつでもある、素朴かつ素直な感情をストレートに表現したものであると評価されている。
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