江戸の2つの大火事と大円寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:34 UTC 版)
「行人坂」の記事における「江戸の2つの大火事と大円寺」の解説
詳細は「明和の大火」および「大円寺 (目黒区)」を参照 行人坂にある大円寺は見るべきものの多い古刹だが、幅4km長さは24km先まで延焼し、1万5000人が死亡し日本橋が壊滅し上野も焼けた明和の大火(明和9年2月29日(1772年4月1日))の火元になった寺でもある。大円寺は武州熊谷無宿の真秀という僧によって放火されたが、放火された大円寺も責任を問われ、再建が認められたのは70年以上も後のことだった。縁起担ぎの好きな江戸庶民は明和9年を「めいわくの年」と読んでよくないことがおきるのではないかと恐れていたが、それは的中し大惨事が起きてしまうことになった。明和の大火は江戸三大大火の一つで目黒行人坂大火とも呼ばれる。大円寺にあり、行人坂の名所でもある石造五百羅漢像は目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。 詳細は「八百屋お七」を参照 また、明和の大火の約90年前の天和の大火(天和2年12月28日(1683年1月25日))で焼け出された八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説ある。吉三=後の西運上人はその1説である)。お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にあるが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と1955年には大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれた。
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