江戸の与力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 03:00 UTC 版)
江戸における与力は、同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。与力は騎乗が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。 有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与力が配置されていた。 与力には、町奉行個人から俸禄を受ける家臣である内与力(元々は着任前の奉行の用人などであり、主君と一緒に奉行所へ着任、離任する)と、将軍から俸禄を受け奉行所に所属する官吏である通常の与力の2種類があった。内与力は陪臣であるため他の与力より本来は格下で禄高もおおむね低かったが、奉行の側近としてその実権はむしろ大きい場合もあった。与力は配下の同心を指揮・監督する管理職であるとともに、警察権でいうならば今日の警察署長級の側面(ただし今日の警察署長のように管轄区域があったわけではない)、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も詮議担当したので今日の裁判官や検察官的側面もあった。 与力は役宅として八丁堀に300坪程度の組屋敷が与えられた。また、もめごとがおこったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった。特権として、毎朝湯屋の女風呂に入ることができた。これは、八丁堀の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女性には朝風呂の習慣がなかったため女湯は空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためである。それでも女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議に数えられていた。与力は組屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があり、与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされた。 町与力組頭クラスは二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだ。ただし罪人を扱うことから不浄役人とみなされ、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった。したがって身分上は御家人であり、御家人の中では上位の俸禄であった。 騎兵扱いであるため袴を着用するが、歩兵扱いの同心の特権である将軍の御成先でも着流しが許される「御成先御免」は無かった。
※この「江戸の与力」の解説は、「与力」の解説の一部です。
「江戸の与力」を含む「与力」の記事については、「与力」の概要を参照ください。
- 江戸の与力のページへのリンク