秀吉の宿老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:02 UTC 版)
清洲会議の後、織田家宿老・柴田勝家との争いが勃発した。天正11年(1583年)3月、勝家出陣の知らせによって伊勢国の滝川一益の攻撃から長浜城に戻った秀吉の軍、13隊中の9番隊が蜂須賀隊であったが、正勝本人は前述の毛利氏との折衝があって部署を離れることが多く、与力・赤松広秀に隊を任せていた。4月の賤ヶ岳の戦いの当日は正勝も秀吉本陣に控え、直接活躍する場面はなかったが、追撃で北陸に進んで尾山城の城兵を説得して降伏させた。その後、長島城で籠城を続けていた一益のもとに派遣され、名代として彼の投降を受け入れて、滝川領の織田信雄への受け渡しを統括した。 また秀吉が本拠を大阪に定めて、同年9月に大坂城の築城を始めるとその普請にも加わった。 天正12年(1584年)、前年より病であった杉原家次はこの年の秋に死去するため、正勝が家中における筆頭格の老臣となった。正勝は大坂城のすぐ側である楼岸に新しい邸宅を与えられ、側近として毎日登城したので参勤料として丹波・河内の内に5千石の領地をあてがわれた。他方で大坂常勤となる前から所領の龍野の経営は家政が取り仕切っており、前年夏以前にはすでに家督を譲っていて、蜂須賀家当主としては隠退していた。 同年の徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いの際には、正勝・家政親子は大坂城留守居となった。戦後、秀吉は修復された桑部城に正勝を、縄生城に蒲生氏郷を守将として入れ、長島城から桑名城に移った信雄を圧迫して、講和を受け入れるように仕向けた。 天正13年(1585年)3月、秀吉が内大臣宣下を受けたのを機に、正勝も朝廷より従四位下の官位を賜り、修理大夫に叙任された。 同じ頃の紀州征伐において家政は大きな手柄を立てた。他方、太田城に籠城した太田左近(宗正)は、水攻めにされて兵糧も尽きたので島田新三郎(直正)を使いとして正勝と前野長康のもとに送り、首謀者36名の命と引き替えに一揆勢と婦女子の助命を嘆願して、秀吉に許された。自害した者達を葬り、首塚で弔ったのは正勝とされる。 次は四国征伐という段の前に、秀吉は前田玄以を遣わして戦勝の暁には正勝に阿波一国を与えるとの内意を示したが、すでに齢六十にして隠居の身であり、大坂にあって秀吉の側近として仕えることを望んでこれを辞退し、代わりに所領は子の家政に与えられることを希望した。 5月、四国攻めでは、正勝は目付として出征した。家政・黒田孝高ら播磨勢は、宇喜多秀家を将とする備前勢と合流して讃岐屋島に渡り、讃岐を制圧。次いで阿波国に進んで木津城を攻囲し、正勝が東条紀伊守を説得して城主・東条関之兵衛を降伏させた。さらに総大将・羽柴秀長と共に一宮城を包囲した。小早川隆景・吉川元長らと連絡を付けるために正勝が伊予国に行っていた7月に、秀長は守将・谷忠澄に白地城に赴いて長宗我部元親を説得するように勧め、それによって和議(降伏)が成立した。 論功行賞によって、阿波一国(17万3千石)は家政に与えられ、阿波の内の1万石は赤松則房に与えられた。龍野城は福島正則へ与えられた。11月頃、家政は蜂須賀氏の郎党家臣をつれて阿波に入国し、秀吉の指示により渭山城を破却して徳島城を築城した。
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