第四話 北ノ政所
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秀吉の正室・北ノ政所は少壮の頃から夫と苦楽を共にし、内助の功で秀吉の立身を見事に支えた。その聡明さは秀吉からも一目置かれ、人事をはじめとする政治問題の最良の相談相手ともなり、豊臣家の創建を大いに助けた。その温和で闊達な人柄は多くの者達を惹きつけ豊臣家中の誰よりも慕われたものの、いささか郷里の尾張出身者を贔屓にする向きがあったため、自然その周囲には尾張出身者の閥ができるようになった。その一方で、新しく秀吉の側室になった淀殿の周囲には近江出身者の閥が形成され、秀吉の淀殿への寵愛が深くなるに連れて近江閥の権勢が目立って強くなっていった。北ノ政所には尾張者に多い武辺者を好み近江者に多い吏僚達を好まないという癖もあり、尾張閥と近江閥の対立は、同時に武断派と吏僚派の対立といった面持ちになった。そして豊臣政権が安定するに連れて軍人よりも官僚的能力を持った人材が重用されるようになり、近江閥の権勢はいよいよ強大なものとなる。北ノ政所の下には、政権中枢から排された尾張者の憂壊が毎日のように持ち込まれるようになるが、彼女自身も殿中重視の豊臣政権の傾斜に密かな憤りを抱いていた。両派は事あるごとに衝突するが、秀吉の死によってその対立にはいよいよ歯止めがきかなくなり小戦の噂が立つほど事態は緊迫化する。しかし、ここで大老首座である家康が動いた。家康は両派の仲裁を買って出るが、その本意は豊臣家の内紛に乗じてその天下を簒奪することにあった。北ノ政所はそのような魂胆など見抜いていたが、淀殿と近江閥への反感があり、またこのまま彼らをのさばらせておけば彼女の保護してきた尾張者たちが滅びざるを得ない。政情は関ヶ原へと動き始めるが、北ノ政所は膝下の者達に家康に従うよう言い含めて影から家康を支え、天下の実権は徳川家に移ることとなる。その後大坂の陣を経て豊臣家は滅亡するが、家康は自身に天下をもたらしてくれた北ノ政所を終生手篤く保護した。彼女は秀吉とともに豊臣家という作品を作り、夫の死を期に自らその根を断ち切った。その行動には他人には渡さぬといった胆気が匂い出、自身の行為に対しての悔恨のようなものがどうにも見られない。
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