斯波義銀
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斯波 義銀(しば よしかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。本姓は源氏。斯波氏(武衛家)15代(最後)当主[注釈 3]。 尾張守護・斯波義統の嫡男。祖父・義達の猶子または養子となって家督を継いだ[注釈 4]とする説もある[1]。弟に毛利秀頼(異説あり)、蜂屋謙入(異説あり)、津川義冬。幼名は岩竜丸。
注釈
- ^ a b 津川氏は斯波氏傍流の姓である。ただし、斯波氏の陪臣である織田信長の家臣になるにあたり、織田一族が信長を当主とする弾正忠家以外が「津田」と名乗ったのに倣って斯波一族は「津川」を称したとする説もある[1]。
- ^ a b 『加賀藩史稿』による説だが、義銀(義近)と津田義忠(正勝)とでは7年ほどしか年齢が離れていないため、その点では矛盾している。
- ^ 「武衛系図」では(清和天皇から数えて)24代目とされているが、義銀の父と祖父が同家系図から漏れており、正しくは26代目にあたる。
- ^ 『東庵法語』には義達の没年を永禄12年(1569年)とし、同元亀2年7月条には義銀が義達を「父」と称する記述がある[1]。
- ^ 実はキリシタンで三松軒とは「サンショ」という洗礼名のことだともいわれるが、恐らくは石橋忠義(洗礼名サンチョ)の経歴と混同されたものと思われる。
- ^ 近年、この時の吉良氏当主は兄の吉良義安で、同盟締結の場に出席したのも義安であったとする小林輝久彦の説もある[2]。
- ^ 「義銀」の終見は『東庵法語』元亀2年7月条、「義近」の初見は彼が織田奇妙(後の信忠)に父・信長へ和解の執り成しを依頼する書状であるが、奇妙の元服は元亀3年とされるため、それ以前に改名したことになる[1]。
- ^ 足利義輝の遺児を称する熊本藩客将尾池義辰より偏諱を受けたものとみられるが、確定事項ではない。なお、細川氏に仕えたのは津川兄弟の方が先だったことが、『肥後細川家侍帳』より分かる。
出典
- ^ a b c d e f g h 木下 2015, 「斯波氏の動向と系譜」.
- ^ 小林輝久彦「天文・弘治年間の三河吉良氏」『安城市歴史博物館研究紀要』12号、2012年。/所収:大石泰史編 『今川義元』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-325-1。
- ^ 谷口 2022, p. 190.
- ^ 『兼見卿記』天正13年10月6日条
- ^ 谷口雄太「足利一門再考 -[足利的秩序]とその崩壊-」『史学雑誌』122巻12号(2013年)/所収:谷口『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年) ISBN 978-4-642-02958-2 2019年、P184-191・202.
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