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千沢楨治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 18:12 UTC 版)

ちざわ ていじ

千沢 楨治
生誕 千葉楨治
1912年9月23日
東京府
死没 (1984-04-21) 1984年4月21日(71歳没)
東京都
国籍 日本
出身校 東京帝国大学文学部
職業 美術史学者
肩書き
養父・千沢平三郎(大日本炭鉱常務取締役)
親戚
栄誉
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千沢 楨治(ちざわ ていじ)は東京出身の美術史学者であり、山梨県立美術館の初代館長を務めた。正四位、勲三等瑞宝章受章。義兄に東京大学名誉教授で「平成」の名付け親とされる山本達郎

経歴

1912年(大正元年)9月23日、東京の千葉直五郎と妻・長の間に二男として生まれる。楨治は満24歳の1936年(昭和11年)12月に跡継ぎの居なかった伯父・千沢平三郎[注釈 1]の養子となり、翌1937年に家督を相続。同年、東京帝国大学の文学部美術史学科を卒業した。その後、1941年(昭和16年)3月まで同学科研究室の副手を、1944年3月まで同助手を務める。同年4月に帝室博物館の鑑査官補、1947年(昭和22年)4月からは東京国立博物館の文部技官となり、1974年(昭和49年)3月に満61歳で退官するまでの間、同博物館の彫刻室長、東洋館開設準備室長、美術課長、学芸部長などを歴任した[3]。また1963年(昭和38年)にはカンボジア王国よりコマンドール・ド・モニサラポン勲章(Commander of the Royal Order of Monisaraphon)を受けている[4]

退官翌年の1975年(昭和50年)4月には町田市立博物館の館長に就任し、1982年(昭和57年)3月まで同職を務めた。また1976年(昭和51年)からの山梨県立美術館・開設準備顧問を経て1978年8月、山梨県立美術館の初代館長に就任。ミレーを中心としたバルビゾン派作品の収集に努めた。楨治は1941年から40年以上教鞭をとった東京女子大学をはじめ、実践女子大学、東京大学、明治大学、学習院女子短期大学、青山学院女子短期大学で講師を務め、上智大学においては1973年から1977年まで講師を、同年から1983年(昭和58年)までは教授を務めている[3]

専門は日本美術史で、特に彫刻および琳派に関しての造詣が深い。上智大教授を退任翌年の1984年(昭和59年)4月21日、楨治は急性心不全のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年71。美術史学会及び美術評論家連盟会員、全国美術館協議会理事。同年10月、山梨県政特別功績者表彰を受けた[3]

家族・親族

  • 千沢平三郎 - 養父、1869年(明治元年12月)生まれ。大阪の観世流能師・橋岡家の長男に生まれる[注釈 2]。1890年ごろ恒岡憲之助、大西亮太郎と3人で東京の宗家へ修行に出たが、能楽衰退期だったため芸事を諦め実業家を志し[7]、1895年に東京市下谷区で銀行業を営む千澤専助の長女・正(まさ、1878年生)と結婚し婿養子となった。大日本炭鉱常務取締役[8]、大正興業監査役[注釈 3]ほか、多くの企業で役員を務める[注釈 4]。1933年(昭和8年)に家督を相続、子が無かったため1936年に甥の楨治を養嫡子に迎えた[11]。第二次大戦後まもなく没す。
  • 頼子 - 妻、1919年(大正8年)9月生まれ。松村眞一郎の長女。女子学習院卒業。叔父の広幡忠隆は皇后宮大夫兼侍従次長を務めた。
  • 千沢治彦 - 長男、1939年(昭和14年)7月生まれ。学習院大学政経学部及び米国アマースト大学卒業後、東京銀行に入り北米部長を務めた。1993年(平成5年)に宮内庁侍従職を、2005年に侍従次長を拝命。妻は第百生命保険の社長を務めた川崎稔の長女・泰子[12]
  • 千沢忠彦 - 二男、1941年(昭和16年)8月生まれ。慶應大学経済学部を卒業し富士電機製造勤務。
  • 千沢昭彦 - 三男、1943年(昭和18年)10月生まれ。学習院大学法学部を卒業し日本石油勤務。妻は日向延岡藩主の家系で子爵・内藤政道[注釈 5]の四女・忠子[4]
  • 千澤専助 - 母方の祖父、1857年(安政4年)生まれ。1882年(明治15年)に幼名・重次郎を改め専助とする。米穀商、下谷銀行頭取、東京市会議員[14]。妻は田中長兵衛の長女・うた(1861年生)。
  • 中大路氏道 - 伯父、1872年(明治5年)9月生まれ。釜石製鉄所第二代所長、三陸汽船及び流山鉄道社長。妻は千澤専助の二女・清(1883年生)。
  • 村田三郎 - 叔父、1888年(明治21年)5月生まれ。1914年に東京高商を卒業し田中鉱山に入社[注釈 6]。1932年(昭和7年)に大正興業、1946年(昭和21年)には流山鉄道の社長に就任した。妻は千澤専助の四女・経子(1898年生)[注釈 7]
  • 千葉直五郎 - 実父、1888年(明治21年)2月生まれ。たばこ三兵衛の一人として知られた千葉松兵衛の長男であり、1926年(大正15年)に家督を継いだ。池貝鉄工所監査役[17]
  • 千葉常五郎 - 実兄、1911年(明治44年)9月生まれ。千葉直五郎の長男。慶應大学卒業。妻の京子は子爵・鍋島直庸の長女。
  • 松村眞一郎 - 義父、1880年(明治13年)生まれ。京都出身で東京帝大法科を出て農商務省へ。後に貴族院議員及び参議院議員を務めた。
  • 山本達郎 - 義兄、1910年(明治43年)生まれ。松村眞一郎の二男であり、祖父・山本達雄の養子に入る。文化勲章受賞。
  • 倉知善吉 - 義弟、1911年(明治44年)生まれ。住友信託銀行取締役。妻は松村眞一郎の二女・治子[19]


著書

単著

  • 『金銅仏』大日本雄弁会講談社、1956年7月。 NCID BN05341795。全国書誌番号:56011561。
  • 『光琳 = Korin』(日本の名画:原色版) 平凡社、1957年9月。 NCID BA53085388。

編書

  • 『カンボジア王国秘宝展』毎日新聞社、1963年。 NCID BN05185929。
  • 『宗達』(日本の美術, No.31) 至文堂、1968年。 NCID BN09849667。
  • 『光琳』(日本の美術, No.53) 至文堂、1970年10月。 NCID BN10544791。
  • 『酒井抱一』(日本の美術, No.186) 至文堂、1981年11月。 NCID BN10158233。

脚注

注釈

  1. ^ 千沢平三郎はこの時67歳。大阪の能楽師の家系に生まれ東京の学校で経済学法学などを修めた平三郎は、大磯招仙閣の主人(当時の所有者は荻野誠一ほか川崎、三宅、佐藤ら大磯町会議員の4名)の仲介で1895年に千澤専助の婿養子になったとされる[1]。養父・専助自身も1896年7月から翌年6月まで招仙閣の所有者であり、観世清之(1849年生)が1905年に書いた書が招仙閣に所縁ある作品として残っている[2]
  2. ^ 人事興信録では平三郎は大阪府平民の岡儀助長男または岡ゑんの長男養子となっている[5][6]
  3. ^ 取締役に叔父・村田三郎のほか、同じ橋岡家出身の橋岡泰次郎の名がある[9]
  4. ^ 気前が良く顔が広いことで知られ、野口遵が日本窒素を設立する際にも資金5万円を融通したとされる。この時は下谷銀行の支配人という立場ながら養父で頭取の専助に相談なく大金を貸したことで一時勘当されている[10]
  5. ^ 学習院では岡部長量と共に山岳部に所属[13]。宮内庁式部官を務めた。
  6. ^ 1888年5月16日、村田政之助の三男として福岡県小倉市に生まれる。東京高商を出て東京の田中本店で勤務。1924年に経営権が三井に譲渡され釜石鉱山に改組された後も社員として勤める[15]。また1920年には義兄・千沢平三郎が設立した東洋貯蓄銀行及び下谷銀行の取締役にも就任[16]
  7. ^ 東京府立第一高等女学校卒業。三郎との間に長男・豁達(1919年生)、長女・晴子(1922年生)、二女・咲子(1924年生)、三女・輝子(1926年生)の一男三女を授かる。
  8. ^ 直五郎との間に長男・常五郎(1911年生)、二男・楨治(1912年生)、長女・和子(1915年生)、三男・弘(1919年生)、二女・千恵子(1921年生)が生まれている[18]

出典

  1. ^ 山野好恭、岡田緑風 編『京浜炭界一百人』帝国新報編輯所、1913年、73頁。NDLJP:950679/57 
  2. ^ 招仙閣とその跡地について』(PDF)大磯町、1-4頁https://www.town.oiso.kanagawa.jp/material/files/group/30/H29-2.pdf2025年3月13日閲覧 
  3. ^ a b c 千沢楨治 日本美術年鑑所載物故者記事』東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10220.html2025年3月2日閲覧 
  4. ^ a b 『人事興信録』(第25版 下)人事興信所、1969年、ち之部 2頁。NDLJP:3044854/257 
  5. ^ 『人事興信録』(第5版)、1918年、ち之部 4頁。NDLJP:1704046/313 
  6. ^ 『人事興信録』(第6版)、1921年、ち之部 3頁。NDLJP:13012960/278 
  7. ^ 『経済人』35 (6)(405)、関西経済連合会、1981年6月、59頁。NDLJP:2666843/31 
  8. ^ 『全国銀行会社事業成績調査録』帝国経済通信社、1921年、311頁。NDLJP:946093/191 
  9. ^ 『帝国銀行会社要録:附・職員録』(第12版)帝国興信所、1924年、204頁。NDLJP:974400/167 
  10. ^ 知切光歳『よし町よしや』「よし町よしや」刊行会、1971年、378頁。NDLJP:11954800/204 
  11. ^ 『人事興信録』(第13版 下)人事興信所、1941年、チ之部 2頁。NDLJP:3430444/179 
  12. ^ 日刊ゲンダイ 編『社長の私生活』8号、東都書房、1984年2月、182頁。NDLJP:11938772/94 
  13. ^ 岳人編集部 編『岳人事典』東京新聞出版局、1983年7月、109頁。NDLJP:12118987/58 
  14. ^ 『人事興信録』(初版)人事興信所、1903年、ち之部 235頁。NDLJP:12986218/165 
  15. ^ 『大衆人事録』(第5版 タ-ワ之部)帝国秘密探偵社、1932年、ム之部 22頁。NDLJP:1688500/522 
  16. ^ 『大衆人事録』(第15版)帝国秘密探偵社、1952年、む4頁。NDLJP:3044846/567 
  17. ^ 『日本人事名鑑』(昭和9年版 下卷)聯合通信社、1933年、チ之部 3頁。NDLJP:1688665/238 
  18. ^ 『人事興信録』(第10版 下)人事興信所、1934年、チ之部 6頁。NDLJP:1078694/127 
  19. ^ 『人事興信録』(第15版 下)人事興信所、1948年、マ之部 34頁。NDLJP:2997935/188 



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