千沢平三郎とは? わかりやすく解説

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千沢平三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/09 02:34 UTC 版)

ちざわ へいざぶろう

千沢 平三郎
生誕 橋岡平三郎
(1869-01-19) 1869年1月19日
大阪府
死没 没年不詳
国籍 日本
肩書き
  • 下谷銀行支配人
  • 大日本炭鉱常務取締役[1]
  • 流山鉄道取締役
子供 養子・千沢楨治(山梨県立美術館初代館長)
  • 養父・千澤専助(下谷銀行頭取)
  • 養母・うた(田中長兵衛長女)
親戚
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千沢 平三郎(ちざわ へいざぶろう)は大阪府出身の実業家。下谷銀行や大日本炭鉱など各社の役員を歴任した。養嫡子の千沢楨治は美術史学者で山梨県立美術館の初代館長を務めた。

来歴

1869年1月19日(明治元年12月7日)観世流能師の橋岡家長男として生まれる[注釈 2]。橋岡は関西における能の大家であり橋岡雅雪[注釈 3]は名手として知られた。門弟も多く、三井南家八代当主の三井八郎次郎もその一人である[6]。1890年(明治23年)ごろ同じく観世一門の恒岡憲之助と大西亮太郎と3人[注釈 4]で東京の宗家へ修行に出たが、明治維新以降は能楽の大変な衰退期だったため観世宗家にも余裕が無く、3人は三井で店員として働きながら芸の修行を続けた[4]。その後亮太郎以外は他の道を模索して家芸の継承を断念[8][注釈 5]。平三郎は実業家を志し、東京の神田商業学校などで経済や法律を学んだとされる[6]

1893年から下谷区で銀行業を営む千澤専助[10]の一家と知り合った平三郎は、大磯招仙閣主人の仲介で1895年(明治28年)5月[11]に養子入り[注釈 6]。同年12月に専助が下谷銀行を設立し頭取に就任すると、平三郎は支配人を務めた[注釈 7]。1905年(明治38年)には茨城県多賀郡にある高萩炭鉱の鉱業権を買取り翌年から採掘を開始[14]。下谷銀行の支配人を務めていた平三郎は後に日窒コンツェルンを築く野口遵に出資し1906年(明治39年)1月に曾木電機株式会社が設立。翌年の日本カーバイド商会設立にも協力している[注釈 8]

また1907年(明治40年)11月に代々木村にある久米民之助別邸で能が開催された際は、紅葉狩を舞って久米や古市公威と共演している[16]。1914年(大正3年)に高萩炭鉱を古賀春一に売却。1917年(大正6年)に古賀を社長として設立された大日本炭鉱の取締役に就任した[注釈 9]。同年12月には北海水産株式会社を設立し取締役社長に就任[18]。1922年(大正11年)11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎと休業に始まる連鎖的な銀行休業の流れの中、下谷銀行も12月半ばに休業となった。1926年(大正15年)5月には義弟の中大路氏道と共に流山鉄道の取締役に選任される。1933年(昭和8年)満64歳にして家督を相続。子が無かったため1936年12月に甥の千葉楨治を養嫡子に迎え、翌年千沢家の家督を譲った[2]。上記の他、平三郎は東洋貯蓄銀行[注釈 10]や大正鉱業[20]、石城鉱業[21]や宝永銅山[22]などの取締役も務め[3]、第二次大戦後間もないころに死去している。

脚注

注釈

  1. ^ 伯父か叔父かは不明。平三郎は雅雪の甥であり、いずれは後継と目されていたが経済界に転身。そのため雅雪に養子入りし、代わりに跡目を継いだのが橋岡久太郎である。
  2. ^ 人事興信録では平三郎は大阪府平民の岡儀助または岡ゑんの長男となっている[2][3]
  3. ^ 1831年生まれ。橋岡家に婿入りして六代目を継承した。雅雪は1909年(明治42年)観世清廉より贈られた號で本名は橋岡忠三郎。大西閑雪、恒岡徳と並んで大坂の名手に数えられた。平三郎は雅雪の甥に当たる[4][5]
  4. ^ この3人のうち大西亮太郎(後の手塚亮太郎)のみが家芸を継いだ。亮太郎は大西閑雪(鑑一郎)の妹の子。恒岡家は帝大を出て鴻池銀行に勤めた憲之助が病で早世した為、大槻文雪(富太郎)が代わって師範となり芸を継いだ。橋岡雅雪(忠三郎)の跡は甥の平三郎に代わって久太郎が養子となり継いでいる[7]
  5. ^ 多くの楽師が大切な面や装束を売って生活を支えていた有様で、他業に転じる者も多く、狂言大蔵流の茂山忠三郎が鰻屋を、金剛流シテ方の今井幾三郎が寿司屋を始めたりするほど当時の能楽は衰退していたと野村又三郎が話している[9]
  6. ^ 平三郎は1895年に千澤の長女・正(まさ、1878年生)と結婚。養父・専助自身も1896年7月から翌年6月まで招仙閣の所有者であり、観世清之(1849年生)が1905年に書いた書が招仙閣に所縁ある作品として残っている[12]
  7. ^ 合資会社下谷銀行は専助が1893年に銀行業を行うため立ち上げた忍商店を改組し設立された。資本金10万円。頭取・千澤専助、取締役に阿部孝助と守田守衛、監督は守田治兵衛と辻八五郎、支配人・千澤平三郎[13]
  8. ^ 平三郎と野口はもともと下谷の梶田屋という待合茶屋の飲み仲間。曾木電機の資本金20万円のうち10万円を平三郎が用意した(5万円を野口に貸し5万円を出資)[15]。曾木電機と日本カーバイドは共に野口の経営で、1908年に合併し日本窒素肥料株式会社となる。
  9. ^ 高萩炭鉱と同じ茨城県多賀郡松原町の秋山炭鉱、及び山口県厚狭郡本山岬の鉱区などが古賀のもとで合併して大日本炭鉱が成立した。資本金280万円[17]
  10. ^ 1898年10月設立、資本金3万円。頭取は千澤専助、取締役に山田清二と千澤平三郎、監査役に金子傳八と山田直次郎。株式会社東洋貯蓄銀行は合資会社下谷銀行の貯蓄部のような位置付けであった[19]

出典

  1. ^ 『全国銀行会社事業成績調査録』帝国経済通信社、1921年、311頁。NDLJP:946093/191 
  2. ^ a b 『人事興信録』(第5版)、1918年、ち之部 4頁。NDLJP:1704046/313 
  3. ^ a b 『人事興信録』(第6版)、1921年、ち之部 3頁。NDLJP:13012960/278 
  4. ^ a b 『能楽画報』第22年(10)、能楽書院、1928年10月、16頁。NDLJP:1519946/12 
  5. ^ 『能楽画報』第22年(11)、能楽書院、1928年11月、15-16頁。NDLJP:1519947/14 
  6. ^ a b 山野好恭、岡田緑風 編『京浜炭界一百人』帝国新報編輯所、1913年、73-74頁。NDLJP:950679/57 
  7. ^ 『経済人』35 (6)(405)、関西経済連合会、1981年6月、59頁。NDLJP:2666843/31 
  8. ^ 『能楽画報』8(6)、能楽書院、1915年6月、14頁。NDLJP:1519803/22 
  9. ^ 三宅襄、丸岡大二 編『能楽謡曲芸談集』謡曲界発行所、1940年、308-313頁。NDLJP:1263624/161 
  10. ^ 篠田皇民『下谷総覧:伝家宝典』東京人事調査所下谷総覧編纂局、1923年、現代人物の部 336頁。NDLJP:924675/308 
  11. ^ 杉山米堂 編『株式総覧:附・財界フースヒー』エコノミスト社、1919年、付録16頁。NDLJP:950523/231 
  12. ^ 招仙閣とその跡地について』(PDF)大磯町、1-4頁https://www.town.oiso.kanagawa.jp/material/files/group/30/H29-2.pdf2025年3月13日閲覧 
  13. ^ 『銀行会社要録:附・役員録』(第三版)東京興信所、1912年、150頁。NDLJP:803640/313 
  14. ^ 茨城県立歴史館 編『茨城県史料』 近代産業編 4、茨城県、1991年3月、23頁。NDLJP:9644531/15 
  15. ^ 柴村羊五『起業の人野口遵伝:電力・化学工業のパイオニア』有斐閣、1981年11月、45-47頁。NDLJP:12189919/31 
  16. ^ 『能楽』5 (13)、『能楽』発行所、1907年12月、75頁。NDLJP:1519582/43 
  17. ^ 『全国模範鉱業偉観』全国鉱業調査会、1919年、108頁。NDLJP:966678/171 
  18. ^ 沢石太、工藤忠平『北海道:開道五十年記念』鴻文社、1918年、89頁。NDLJP:956913/321 
  19. ^ 『信用カード』 府県別 東京府、信用通信社、1918年、37頁。NDLJP:932152/25 
  20. ^ 『帝国銀行会社要録:附・職員録』(第7版)帝国興信所、1918年、東京府 189頁。NDLJP:974397/181 
  21. ^ 『日本鉱業名鑑』(改訂)鉱山懇話会、1918年、東京府 19頁。NDLJP:951205/42 
  22. ^ 『世界之日本』二六新報社、1921年、会社銀行商店之部11頁。NDLJP:946122/602 



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