株式会社化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 04:04 UTC 版)
「釜石鉱山田中製鉄所」の記事における「株式会社化とその後」の解説
1901年(明治34年)田中長兵衛が亡くなり、長男の安太郎が二代目田中長兵衛の名と社長職を継ぐ。同年、北九州に造られた官営八幡製鐵所の溶鉱炉火入れに当たっては、釜石鉱山田中製鉄所より選抜された山崎勘介、笹山二郎ら計7名の高炉作業者が派遣された。 1903年にはこれまでの銑鉄生産に加え、製鋼作業を開始。八幡製鐵所より一足早く、日本で最初に安定した稼動の見込める銑鋼一貫製鉄所となる。また、製造した鉄鋼を運ぶ海運にもより一層力を入れ、1904年には汽船長久丸(長兵衛の「長」と久太郎の「久」より取ったと思われる)を購入している。 1916年(大正5年)、香村に替わって主任技師となった中大路氏道の元、120トンの大高炉を建設。1917年(大正6年)4月1日には株式会社化。田中鉱山株式会社が発足し、釜石鉱山製鉄所は同社の釜石鉱業所となった。会社は資本金2000万円、払込1000万円、社長の田中長兵衛以下、専務取締役に横山久太郎と田中長一郎、取締役に香村小録と中大路氏道、監査役に吉田長三郎と高橋亦助という陣容であった。 しかし1918年(大正7年)の第一次世界大戦終結後に襲ってきた不況の波の影響は強く、経営は次第に悪化していく。1919年(大正8年)11月、創業以来未曾有という労働争議が起こり、全工場が一時操業を停止してしまう。これは警察官200名、陸軍2個中隊が出動するという大規模なものだった。この前年に入社した社員の三鬼隆(後の日本製鐵・八幡製鐵社長)の努力により何とか争議は解決されたものの、負債が増加するなど深刻な被害を受けている。1921年(大正10年)には最後の木炭吹製高炉を持つ栗原分工場も操業を停止、1923年(大正12年)の関東大震災による東京の本店焼失などがそれらの流れに追い討ちをかけてついに経営が破綻。1924年(大正13年)に田中鉱山は、田中家から三井財閥系の三井鉱山に経営権を移し、釜石鉱山株式会社に社名を変更した。
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