あくたがわ‐りゅうのすけ〔あくたがは‐〕【芥川竜之介】
あくたがわりゅうのすけ 【芥川竜之介】
芥川龍之介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/26 07:02 UTC 版)
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京出身。『鼻』、『羅生門』、『地獄変』、『歯車』などで知られる。
注釈
- ^ 長女の急死が原因であったと推測されることがある。
- ^ a b c d e f g クラスは一年三之組。第一部乙類(英文科)は3年間この1クラスのみ。
- ^ 名簿は前年の成績順。
- ^ 1892年生まれ。1915年に陸軍軍人と結婚。1973年死去。
- ^ 芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した(芥川龍之介『その頃の赤門生活』より)。
- ^ 防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録『職員進退録』に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、アジア歴史資料センターでのネット公開の対象外である。
- ^ 西川は弁護士であったが偽証教唆の罪で失権し、刑務所に収監され、出所後に自宅が半焼した際に直前に多額の保険金をかけていたことや家屋の2階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことから保険金詐欺目的の放火が疑われていた。
出典
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。
- ^ 『第一高等学校一覧 明治43-44年』(入学時)、132頁
『第一高等学校一覧 明治44-45年』(2年進学時)、126頁
『第一高等学校一覧 大正元年-2年』(3年進学時)、118頁
『第一高等学校一覧 大正2年-3年』(卒業時)、310頁 - ^ 神の罠, 36頁
- ^ 神の罠, 38.178頁
- ^ 関口 1992, p. 213
- ^ 芥川龍之介 「入社の辞」、1919年3月。
- ^ 海軍兵学校物語, p. 73
- ^ 関口 2010, p. 52
- ^ 川端康成 「芥川龍之介氏と吉原」
- ^ 「善良なる市民」芥川龍之介は“流言蜚語を鵜呑み”にし菊池寛に一喝される|関東大震災|畑中章宏 - 幻冬舎plus
- ^ 川端 2015, p. 58
- ^ 渡部 2017, p. 46
- ^ 関口 2010, p. 54
- ^ a b 関口 2010, pp. 44–47
- ^ [「平松ます子」『芥川龍之介新辞典』], 511頁
- ^ 山崎光夫 『藪の中の家』 中公文庫、2008年。(第四章六 - より)
- ^ 芥川文、中野妙子記 『追想芥川龍之介』 中公文庫、1981年、p.170
- ^ 戒名はなく墓碑も俗名『東京日日新聞』昭和2年7月26日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172662/15 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1939年版(検閲による削除あり)国立国会図書館所蔵}
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180947/16 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1927年版(検閲による削除なし)国立国会図書館所蔵}
- ^ 神の罠, 40.177頁
- ^ 神の罠, 178-179頁
- ^ 「ぼんやりとした不安」手記残し自殺『東京日日新聞』昭和2年7月25日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 芥川龍之介 「或旧友へ送る手記」、1927年7月。
- ^ 久世番子『よちよち文藝部』文藝春秋、2012年10月、152-153頁
- ^ 『芸能人と文学賞 〈文豪アイドル〉芥川から〈文藝芸人〉又吉へ』川口則弘、ベストセラーズ, 2017、「芥川のブロマイドが芥川賞の根源にあった--「作家」というアイドルの誕生」の章
- ^ 十重田 2013, p. 172
- ^ 谷中斎場で葬儀、霊前で慟哭した菊池寛『東京日日新聞』昭和2年7月28日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 菊池寛 「芥川の事ども」、『文藝春秋』1927年9月号。
- ^ a b 木口直子(田端文士村記念館学芸員)「芥川龍之介没後九十年”河童忌”の新たな幕開けに添えて」『文藝別冊 芥川龍之介』河出書房新社、2017年、201-208頁。
- ^ “イベント一覧”. 田端文士村記念館 北区文化振興財団. 2019年2月4日閲覧。
- ^ 「芥川龍之介記念館」整備/北区が旧居跡地購入へ 書斎再現や資料展示『毎日新聞』朝刊2018年6月7日(東京面)2018年6月7日閲覧。
- ^ a b 片野 2006, p. 15-16
- ^ 芥川龍之介 「わが俳諧修業」
- ^ 吉野裕之 「緑いろの何か-あるいは、芥川を撃った赤い光」、『歌壇』1996年6月号。
- ^ a b c d 『芥川追想』岩波書店、379-381頁。
- ^ a b “芥川の内面伝える手紙発見 佐藤春夫宛て、深い交友”. 共同通信. 2022年8月12日閲覧。
- ^ a b 奇兵隊に新原敏三という人がいて、その人は芥川龍之介の父親だと講演で聞いたのだが、本当かレファレンス協同データベース、2020年08月04日
- ^ 芥川龍之介の文学碑田村悌夫、山口県立大学 郷土文学資料センターだより28号、2017年3月31日
- ^ a b c に芥川龍之介人物録
- ^ a b あ芥川龍之介人物録
- ^ 天満ふさこ『「星座」になった人―芥川龍之介次男・多加志の青春』新潮社、2007年6月。ISBN 978-4103049715。
- ^ 2007年8月15日放送「世界バリバリ★バリュー」、2008年4月20日放送「大胆MAP」より
芥川龍之介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/10/20 15:18 UTC 版)
人気漫画家。東京帝国大学漫画科出身。連載、雑誌の取材、来客の応対などに忙殺の日々を送る。35歳。
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芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ,1892-1927)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:49 UTC 版)
「「うま味」を発見した男」の記事における「芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ,1892-1927)」の解説
明治25年、東京市京橋区入船町に牛乳製造販売業を営む新原敏三の長男として生まれる。大正2年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。在学中に菊池寛らとともに同人誌『新思潮』を刊行。大正4年、夏目漱石門下に入る。翌5年『新思潮』に掲載した「鼻」が夏目漱石に絶賛される。
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芥川龍之介
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上野「清凌亭」に勤めていた十代のころ、客として現れた芥川を見て、女中仲間に「芥川龍之介だ」と言ったところ、その女中が芥川に「お客さんを知っている者がいる」と話し、個人的な知り合いかと勘違いした芥川が席に呼んだのがきっかけで、顔見知りとなった。芥川は佐多を「お稲さん」と呼んで贔屓にしていた。佐多は粋な縞銘仙に黒襟姿で立ち働くきゃしゃな娘で、仲間うちからは、芥川は佐多に好意を持っているようだと見られていた、芥川が亡くなる4日前には芥川から連絡があって自殺者の心理を聞かれたという。
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芥川龍之介
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1925年(大正14年)4月21日に、芥川龍之介が修善寺温泉の新井旅館に行くために、東海道線三島駅から駿豆線三島駅へ乗り換える様子を伝える手紙があり、「…(東京から汽車で、午後4時39分に)三島についたらプラットホームの向う側に修善寺行きの軽便(豆相鉄道)がついているゆえ、それへ乗れば六時には修善寺につく。修善寺駅から新井までは乗合自動車、人力車荷でもある。時間がわかれば僕が迎えに出る。切符は東京駅より修善寺駅まで買ったほうがよし。(三島まで買うと又買わねばならないから面倒くさい。東京駅で修善寺駅まで売っている)」との記述がある。なお芥川は丹那トンネルが開業する前に他界しているので、ここで出てくる三島駅とは御殿場線にある下土狩駅を指している。
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芥川龍之介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:54 UTC 版)
芥川龍之介は、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学科を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある海軍機関学校英語教授嘱託として12月付けで赴任することになり、東京から鎌倉町和田塚(現・由比ガ浜4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)沿線で下宿生活を始める。芥川は、この後、1917年(大正8年)9月にいったん横須賀市汐入町へ転居したが、1918年(大正7年)3月になって大町字辻の小山別邸内に借家として新居を構え、1919年(大正8年)3月末に海軍機関学校を退職して田端の自宅(東京府北豊島郡滝野川町田端〈現在の東京都北区田端1-19-18〉。cf. 田端文士村)に戻るまで暮らした。 おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、1923年(大正12年)の関東大震災発生以降に本格化する文化人の鎌倉暮らし、いわゆる鎌倉文士の時代の先駆けとも見なされている。
※この「芥川龍之介」の解説は、「鎌倉市」の解説の一部です。
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「芥川 龍之介」の例文・使い方・用例・文例
- 私は学校で日本文学の英語訳、特に漱石の『吾輩は猫である』や『心』、芥川の『鼻』や『河童』を楽しく読んだ。
- 芥川賞の受賞を辞退したいのですが。
- 彼は芥川賞をねらっている.
- 歌手で女優の中山美穂さんと,芥川賞作家でミュージシャンの辻仁成さんが最近,結婚した。
- その後,「海峡の光」で芥川賞を受賞した。
- 芥川賞と直木賞の受賞者発表
- 純文学の芥川賞と大衆文学の直木賞が,それぞれ吉田修一さんの「パーク・ライフ」と乙(おと)川(かわ)優(ゆう)三(ざぶ)郎(ろう)さんの「生きる」に授与される。
- 大(だい)道(どう)珠(たま)貴(き)さん,芥川賞受賞
- 彼女の小説「しょっぱいドライブ」に第128回芥川賞が授与されるのだ。
- 芥川賞は33歳のモブ・ノリオさんに贈られた。
- プロのシンガーソングライター,川上未(み)映(え)子(こ)さん(31)が小説「乳(ちち)と卵(らん)」で芥川賞を受賞した。
- 芥川賞は有望な純文学の新人作家に贈られる。
- 楊(ヤン)逸(・イー)さん(43)はこの冬の芥川賞の7人の候補者の中の1人だった。
- 7月15日,第139回芥川(あくたがわ)賞,直(なお)木(き)賞の受賞者が発表された。
- 芥川賞は中国人作家である楊逸(ヤン・イー)さんの「時が滲(にじ)む朝」に贈られる。
- 芥川賞の選考委員の1人は,「この小説は,自国を離れなければ気づかないものがあるということを伝えている。」と話した。
- 黒田夏子さん(75)が自身の作品「abさんご」で最年長の芥川賞受賞者になった。
- 芥川賞選考委員会のメンバーの1人は黒田さんの作品について,「横書きでのひらがなの使い方がとても洗練されている。彼女の作品は全体として美しい。」と語った。
- 柴(しば)崎(さき)友(とも)香(か)さんが小説「春の庭」で芥川賞を受賞した。
- 小野正(まさ)嗣(つぐ)さん(44)が小説「九年前の祈り」で芥川賞を受賞した。
芥川 龍之介と同じ種類の言葉
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