芥川龍之介と室生犀星
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1914年(大正3年)に田端文士村の中心人物となる芥川龍之介が田端に引っ越してくる。当時は田端は芸術家は多くいたものの、文士は冒険小説家の押川春浪が住んでいた程度で皆無に等しかった。また当時の芥川は東京帝国大学の学生で、まだ作家としては無名であった。しかし、同年同級生だった久米正雄らと第三次『新思潮』を発刊、処女作品として「老年」を、次いで後に代表作の一つとなった「羅生門」を発表。1916年(大正5年)には、芥川の名前が一躍世間に知れわたった。特に「鼻」が夏目漱石から絶賛されると、文壇での地位は確固たるものになった。このできごとは多くの文士が田端に住む一つのきっかけにもなった。芥川は当地の芸術家とも交流を密にして、前述のように特に鋳金家・香取秀真とは親交が深かったともいわれている。 さらに1917年(大正6年)室生犀星が当地で詩誌『感情』を創刊した。室生が田端の地を選んだのは、当地に住んでいた・吉田三郎の存在が大きかったといわれている。この『感情』には室生犀星の盟友・萩原朔太郎も加わっている。 室生犀星も田端文士村の一翼を担った。ほどなくして、当地在住の芥川龍之介を知る。 両者は交流し、時には互いにライバル心を燃やしながらも田端文士村の作家たちの交流の要となり続けた。 1919年(大正8年)頃になると芥川が中心となって「道閑会」という田端在住の作家と芸術家達のとの親睦会が始まる。メンバーには、久保田万太郎や山本鼎や、小杉未醒らがいた。 またこの頃から芥川龍之介の書斎は「我鬼窟」と呼ばれ、面会日と決めていた毎週日曜日になると多くの文人達や芸術家が彼のもとに来たといわれている。特に画家・小穴隆一とは親交を密にした。
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