芥川龍之介と室生犀星とは? わかりやすく解説

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芥川龍之介と室生犀星

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:43 UTC 版)

田端文士村」の記事における「芥川龍之介と室生犀星」の解説

1914年大正3年)に田端文士村中心人物となる芥川龍之介田端引っ越してくる。当時田端芸術家多くいたものの、文士冒険小説家の押川春浪住んでいた程度皆無等しかった。また当時芥川東京帝国大学学生で、まだ作家として無名であった。しかし、同年同級生だった久米正雄らと第三次新思潮』を発刊処女作品として「老年」を、次いで後に代表作一つとなった羅生門」を発表1916年大正5年)には、芥川の名前が一躍世間知れわたった。特に「鼻」が夏目漱石から絶賛されると、文壇での地位確固たるものになった。このできごと多く文士田端に住む一つきっかけにもなった。芥川当地芸術家とも交流密にして、前述のように特に鋳金家・香取秀真とは親交深かったともいわれている。 さらに1917年大正6年室生犀星当地で詩誌『感情』を創刊した。室生田端の地を選んだのは、当地住んでいた・吉田三郎存在大きかったといわれている。この『感情』には室生犀星盟友萩原朔太郎加わっている。 室生犀星田端文士村一翼担ったほどなくして当地在住芥川龍之介を知る。 両者交流し時には互いにライバル心を燃やしながらも田端文士村作家たちの交流の要となり続けた1919年大正8年)頃になると芥川中心となって「道閑会」という田端在住作家芸術家達のとの親睦会が始まる。メンバーには、久保田万太郎山本鼎や、小杉未醒らがいた。 またこの頃から芥川龍之介書斎は「我鬼窟」と呼ばれ面会日と決めていた毎週日曜日になると多く文人達や芸術家彼のもとに来たといわれている。特に画家小穴隆一とは親交密にした。

※この「芥川龍之介と室生犀星」の解説は、「田端文士村」の解説の一部です。
「芥川龍之介と室生犀星」を含む「田端文士村」の記事については、「田端文士村」の概要を参照ください。

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