芥川龍之介の死と『聖家族』
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「堀辰雄」の記事における「芥川龍之介の死と『聖家族』」の解説
1925年(大正14年)4月に東京帝国大学文学部国文科に入学。室生犀星宅で中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に「甘栗」を発表する。中野や窪川らと駒込神明町(現:文京区本駒込)動坂のカフェ「紅緑」(こうろく)に集まり、当時女給をしていた佐多稲子ともこの頃知り合う。また、7月から9月上旬まで軽井沢に部屋を借り、芥川龍之介に随伴し峠や古い駅などを見て廻った。この夏には、スタンダールやアンドレ・ジッドなどの作品を多く読んだ。1926年(大正15年)4月に中野や窪川、平木二六、西沢隆二、宮木喜久雄らと同人誌『驢馬』を創刊。芸術派とプロレタリア文学派という戦前昭和時代の文学を代表する流れとのつながりをもった。堀の作品がもつ独特の雰囲気は、これらの同人の影響によるところもあり、「水族館」などモダニズムの影響を色濃くもった作品もある。9月に神西清、吉村鉄太郎(片山広子の息子・片山達吉)、青木晋(竹山道雄)らと同人誌『箒』(のち『虹』と改題)を創刊し、その後『山繭』と合流。 1927年(昭和2年)2月、ラディゲなどの影響を受け、片山総子をモデルにした処女作「ルウベンスの偽画」の初稿を同人誌『山繭』に発表。7月24日には芥川龍之介が自殺し、大きなショックを受ける。絶望的な精神状態のまま、9月に芥川の甥・葛巻義敏と共に『芥川龍之介全集』の編纂に従事する。1928年(昭和3年)1月、心身の疲労がたたり、風邪から再び重い肋膜炎を患い死に瀕する。4月まで大学を休学し、湯河原で静養し、8月末から10日ほど軽井沢へ行く。1929年(昭和4年)1月に「ルウベンスの偽画」の改稿を『創作月刊』に発表した後、2月にコクトーの『大胯びらき』の影響を受けた「不器用な天使」を雑誌『文藝春秋』に発表。3月の卒業論文は、「芥川龍之介論」だった。4月に翻訳の『コクトオ抄』を刊行した。10月に犬養健、川端康成、横光利一らと同人誌『文學』(第一書房刊)を創刊。 1930年(昭和5年)5月に「ルウベンスの偽画」の完成稿を『作品』創刊号に発表後、7月に初めての作品集『不器用な天使』を刊行。この頃、川端康成と一緒に浅草のカジノ・フォーリーに見物に行ったりし、川端と親交を持つようになった。7、8月と2度軽井沢に滞在し、11月に、芥川の死をモチーフに、この頃の身辺体験を描いた「聖家族」を雑誌『改造』に発表し、文壇で高い評価を受けた。脱稿後の秋に喀血し、自宅療養中の病臥でマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読み始める。「プルースト体験」の影響は、この時期に書かれた「本所」(のち「水のほとり」、「墓畔の家」、「向島」に改題)や、その後発表される「花を持てる女」や「幼年時代」などに、子供時代への遡行が表われ、震災で失った母への鎮魂や、人生の切実な問題として母の不在に対する嘆きがある。 堀の病状は好転せず、1931年(昭和6年)4月から3か月間、長野県の富士見高原療養所へ転地療養。8月中旬から10月上旬まで軽井沢に滞在し、「恢復期」を書いて12月に『改造』に発表。帰京後も絶対安静となる。このように病に伏せることが多かった堀が、プルースト、ジェイムズ・ジョイスなど、当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、作品を深めていくのに役立った。
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