芥川龍之介の自殺と太宰の自殺指向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
「太宰治と自殺」の記事における「芥川龍之介の自殺と太宰の自殺指向」の解説
太宰治は青森中学校在学時代から、少し困難な場面に陥ると「死にたくなった」と言うのが口癖であった。弘前高等学校進学後も友人に2回ほど自殺について語っていたという。文学に傾倒していた高等学校時代、太宰が特に大きな影響を受けたのが芥川龍之介であった。1927年5月21日、太宰は青森市公会堂で開催された「現代日本文学全集文芸講演会・映画大会」での芥川龍之介の公演を聞き、青森から弘前までの帰途の列車内、そして弘前の下宿に帰ってからも芥川の話をし続けていた。公演を聞いた約2か月後の7月24日、芥川は服毒自殺する。太宰は芥川の自殺に大きな衝撃を受けた。津軽の名家津島家の子として生まれ、将来を嘱望されていた太宰ではあったが、文学への傾倒を抑えることは難しかった。名家の子として学業に専念するか、文学の道を選ぶかの岐路に立たされていた太宰にとって、芥川の自殺は大きな転機となった。太宰の文学への傾倒は決定的なものとなり、創作活動、そして私生活でも芥川の文士気質を模倣するようになった。 またもともと死と隣り合わせの中で生きているような面があった太宰は、同じような傾向を持つ芥川の影響を強く受けて自殺指向を明確に持つようになり、死を一種の処世術とするようになって、芥川が常用し、自殺でも用いられた睡眠薬への依存傾向を強めていく。そして1929年11月頃、町の娘と郊外の原っぱでカルモチンを大量摂取して心中を図り、未遂に終わったとの記録もあるがはっきりとしない。
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