戦前昭和時代
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西川春洞門の豊道春海による大正末期の「日本書道作振会」の創立を皮切りに、大規模な書道団体の結成が相次ぎ、その団体による書道展が開催された。近代書壇史の始まりである。また日下部鳴鶴門の比田井天来による現代書の出現もこの時代の特色である。そして書道に関する各種の刊行物が多量に発行されたこともあって、書道の普及、発達が著しい時代であった。代表的な書家には、「昭和の三筆」と称された西川寧、日比野五鳳、手島右卿が挙げられる。
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戦前昭和時代
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1927年(昭和2年)に小石川区関口町(現・文京区)の新居に移り、中旬から改造社の講演旅行に加わり九州、北陸方面を廻り、7月に中国旅行を行い、旅行中に芥川龍之介の訃を聞く。帰朝後に『芥川龍之介全集』の編纂にたずさわり、王秀楚の「揚州十日記」を翻訳発表した。『平凡』、『文學』の創刊に携わり、1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当。在職中に現在の同大学校歌を作詞する。翌年に兵庫県武庫郡に移り住むが、軽い脳溢血を病み、病気静養のため下里へ帰郷する。 谷崎潤一郎の妻・千代を、1930年(昭和5年)に譲り受けた。谷崎と千代の離婚成立後、3人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されて反響を呼び起こした。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。 1931年(昭和6年)に雑誌『古東多万』を創刊し編纂責任者となる。魯迅の翻訳「故郷」「孤独者」を手がけ、「危機」を『改造』に連載し始めたが、モデル問題が起こり中断する。長男の方哉が誕生し、1933年(昭和8年)に法政大学を辞職する。この年に中谷孝雄を知る。翌年に文芸懇話会が創立され会員となり、中旬から和歌山県名勝地踏破旅行に出かける。 1935年(昭和10年)芥川賞が制定されると選考委員となる。また日本文学振興会理事の一人となった。しかし、第1回文芸懇話会賞をめぐって論争し、委員を辞任する。8月に太宰治を知る。翌年に文化学院の文学部長に就任する。1937年(昭和12年)に日本浪曼派の同人となり、7月に新日本文化の会設立に参加し、『新日本』の編纂人となる。翌年5月には文藝春秋社特派員として華北方面に出発し、9月に文学者従軍海軍班の一員として中国に赴く。1940年(昭和15年)初代・花柳寿美のために「八雲起出雲阿国」を書き下ろし、歌舞伎座、帝国劇場で上演。10月に慶應義塾特選塾員となる。翌年5月に文藝銃後運動のため、近畿地方に講演旅行。太平洋戦争の文士部隊として中支戦線に従軍し、マレー及びジャワの南方方面へ視察旅行に出る。1945年(昭和20年)4月、長野県北佐久郡平根村(現・佐久市)に疎開。その地に1951年(昭和26年)10月まで留まり、「佐久の草笛」をまとめる。
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