手島右卿とは? わかりやすく解説

手島右卿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 06:50 UTC 版)

手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年明治34年)11月3日 - 1987年昭和62年)3月27日)は、日本書家文化功労者高知県安芸町(現安芸市)出身[1]。本名・南海巍(なみき)[1]ニックネームは「ライオンの右卿[要出典]

妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。

経歴

1915年大正4年)、川谷尚亭の門をたたき、師逝去の後は1935年(昭和10年)に上京、比田井天来の門下となる[2]。その後、大日本書道院第1回展では天来の単独審査を手伝うなど、次第に頭角を現し、以後日展の参事や審査員、文部省指導書編集委員などを歴任[2]

常々、「書は人間の霊知の所産である」として、東洋的な精神性と現代感覚を融合した「象書」を創始[2]空海などの古法を基に確立された小字数書の能書家である[要出典]1958年(昭和33年)、ブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に日本代表として富岡鉄斎梅原龍三郎井上有一とともに指定出品された「抱牛」は、最高殊勲金星を受け、一躍世界の注目を集め、書道芸術の国際的評価を高めるきっかけとなる[2]1985年(昭和60年)、中国・北京革命歴史博物館にて「日本手島右卿書法展」を開催、観客11万人を動員[2]

専修大学教授、日本書道専門学校初代校長。高知県名誉文化賞[2]、安芸市名誉市民[2]文化功労者[2]。片山子鶴など多くの弟子が書家として活躍する[要出典]

略歴

  • 1901年(明治34年)高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生まれる[1]。本名、南海巍(なみき)[1]
  • 1915年(大正4年)川谷尚亭の門に入る[1]
  • 1933年(昭和8年)南海書道会を興し、競書誌「南海書聖」を主宰する[1]
  • 1935年(昭和10年)上京。比田井天来の門に入る。書道芸術社同人に推される[1]
  • 1937年(昭和12年)第1回大日本書道院展で特別賞を受賞[1]。同院参事、審査員、書学院教授に任じられる[1]
  • 1939年(昭和14年)蒼龍社を結成する[1]。「尚亭先生書話集」を編集発刊する[1]
  • 1942年(昭和17年)興亜書道展審査のため南京へ出張[1]
  • 1946年(昭和21年)終戦後直ちに書壇再建運動に奔走[1]。(財)日本書道美術院結成に参画、理事企画部長となる[1]
  • 1947年(昭和22年)書道芸術院結成。総務理事となる[1]
  • 1948年(昭和23年)毎日新聞社主催第1回日本総合書芸展(現毎日書道展)が開かれ、運営委員、審査員となる[1]。第4回日展に第五科「書」が新設され、委嘱出品[1]
  • 1950年(昭和25年)日本書作院結成[1]。副会長に推される[1]。第6回日展審査員[1]
  • 1951年(昭和26年)(社)日本書道連盟設立[1]。理事となる[1]
  • 1952年(昭和27年)独立書道会(現独立書人団)を結成[1]。代表となる[1]
  • 1955年(昭和30年)欧州巡回「墨の芸術展」と、翌年のアメリカ巡回展に出品[1]
  • 1957年(昭和32年)朝日新聞社主催第1回「現代書道二十人展」に依嘱出品(以降連続出品)、サンパウロ・ビエンナーレ展に日本代表書家として、初めて参加出品[1]
  • 1958年(昭和33年)ブリュッセル万国博覧会「近代美術の五十年展」に日本代表として特別指定出品[1]。最高殊勲金星を受賞[1]
  • 1959年(昭和34年)「右卿臨書集成」を発刊する[1]
  • 1961年(昭和36年)訪中書道使節として、中国各地を歴訪[1]
  • 1966年(昭和41年)専修大学文学部が新設され、初代教授に就任[1]。日本書道専門学校を創設して、初代校長となる[1]
  • 1967年(昭和42年)東京三越本店で個展開催[1]。同展に対し、翌年書道界初の「毎日芸術賞」が贈られる[1]
  • 1969年(昭和44年)ベルギー国主催「右卿とその一門展」開催[1]。外務省第1回訪欧文化使節団長として渡欧[1]。高知県安芸市名誉市民に推挙される[1]
  • 1970年(昭和45年)講談社刊「現代書事典」の「少字数・象書篇」を監修[1]日本万国博覧会(大阪)世界美術館に「飛」を指定出品する[1]
  • 1971年(昭和46年)毎日新聞社主催による「書業五十年手島右卿自選展」を東京で、翌年大阪で開催[1]
  • 1973年(昭和48年)東京で「手島右卿名筆展」を、続いて翌年愛知と高知で個展を開催[1]
  • 1975年(昭和50年)パリで「右卿とその一門展」を開催[1]。外務省第2回訪欧文化使節団長として渡欧[1]
  • 1976年(昭和51年)東京で「右卿新作小品展」を開催[1]勲三等旭日中綬章を受ける[1]
  • 1981年(昭和56年)静岡で「巨匠手島右卿書作展」を開催[1]
  • 1982年(昭和57年)アメリカ、ミネソタ州セントポールイリノイ州エバンストンで「手島右卿とその一門展」を開催[1]文化功労者顕彰を受ける[1]
  • 1985年(昭和60年)中国、北京革命歴史博物館中央大正庁で日本人として初の「日本手島右卿書法展」を開催[1]
  • 1987年(昭和62年)鎌倉市で没する[1]。(享年85)

人物

  • もともとは画家志望だった。
  • 一度決めたら曲げない土佐いごっそうの気質だった。
  • シャツのボタンを自分で止められないなど一見不器用だが、筆を持つとその筆が魔物のように動きだす。普段は激昂しやすいが、生み出される作品は繊細かつ緻密であり、弟子たちや周りもそのギャップに魅了された。
  • 無類の酒好きとして知られる。朝まで飲み歩くこともしばしばで、家計は常に火の車であった。
  • 気性が大変荒く、相手が誰であろうと意に沿わぬことははっきりと主張した。豊道春海などとも議論を交わし、口喧嘩に発展することもあったという。春海も右卿の実力を認め、1971年(昭和46年)、豊道春海賞を贈った。右卿は最初は断ったが、春海の遺言であることを知り、これを受賞した。
  • 「書は音楽でもある」と発言したことで有名。
  • 空海に心酔し、空海の書法を好んで研究した。
  • 筆の数は他の大家と比べると少なく、20本ほどの良質の筆を生涯大切に使用した。

著書

  • 右卿臨書集成 全11巻 白亜書林、1956-1957
  • 右卿唐詩帖 五禾書房、1958
  • 手島右卿 筑摩書房、1971(現代書道教室)
  • 手島右卿書法 尚学図書、1980
  • 臨書のすすめ 日貿出版社、1986
  • 手島右卿臨書集 巻1-2 西東書房、1987
  • 不滅の書人手島右卿と語る 駒井鵞静 雄山閣出版、1989
  • 手島右卿大観 全10巻 独立書人団、1997
  • 手島右卿大観 別巻 1-2 独立書人団、2000
  • 手島右卿大観 第2期 第11-20巻 独立書人団、1998-1999
  • 手島右卿大観 第3期 第21-30巻 独立書人団、1999-2000

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax 創立者 手島右卿|作品・右卿語録・略年譜”. www.dokuritsu.or.jp. 公益財団法人 独立書人団. 2022年4月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 手島右卿”. www.city.aki.kochi.jp. 安芸市立歴史民俗資料館. 2022年4月29日閲覧。

参考文献

  • 手島泰六『右卿伝説』高知新聞社、1991年
  • 手島泰六『右卿幻夢』中野出版企画、1993年
  • 手島泰六『右卿復活』高知新聞社、1998年
  • 手島泰六『右卿外伝』高知新聞社、2004年

関連項目

外部リンク




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