現代書への胎動
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日下部鳴鶴を継ぐ主な人々の中で、もっとも壮大な展開をしたのは比田井天来である。天来は30歳のとき、文検(習字科)に合格し書家としての活躍が始まった。鳴鶴は唐様を六朝書によって革新し、さらに碑版法帖の体系的研究により、書にもその時代に相応しい根拠を持たせようとした。これに対して天来は碑版法帖をよりいっそう体系づけるとともに個性・芸術性という内面的な美意識を開拓していった。この鳴鶴から天来への展開は、天来の門弟たちに引き継がれ、この時代に「現代書」として現れる。 日下部鳴鶴 比田井天来 上田桑鳩…前衛書 手島右卿…一字書 金子鷗亭…近代詩文書 桑原翠邦…漢字書 現代書の宣言 1933年(昭和8年)天来の教えを受けた上田桑鳩を中心とした若い世代が「書道芸術社」を結成し、機関誌『書道芸術』を発刊した。その創刊の辞に、 「現代に活きて居る吾等には自ら現代の書がなければならぬ。」「明治大正の二時代に於て、先覚は献身的に復古運動を絶叫された。然し復古そのものが最後でも目的でもない。此の基礎に立って古いものを現代化し、或は進んで新しく生み出すことに意義がある。」(抜粋) と述べている。また鮫島看山は同じく創刊号の「作書理法覚書」の中で、 「書は文字と云ふ素材を借りて作者の主観を表現するところの線芸術である。」「社会状勢が変り、作者の主観が異り、用具が新に発明さるるならば、更に新しい様式が生れる可きは当然である。だから何時迄も従来の篆隷楷行草に固執する必要はないと云ふことになる。」(抜粋) と述べている。このように『書道芸術』創刊号は「現代書」の進むべき方向性を明らかにするものであった。 近代詩文書については、1933年(昭和8年)金子薊谷(鷗亭)が『書之研究』に「新調和体」論を展開し、島崎藤村の「秋風の歌」や北原白秋の「けやき」・「かやに」を発表した。また、『書道芸術』は1937年(昭和12年)11月号で、仮名交じり文の研究を特集し、手島右卿は仮名交じり文とともに、それの英語表現を報告している。
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