文藝銃後運動とは? わかりやすく解説

文芸銃後運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/21 02:51 UTC 版)

文芸銃後運動(ぶんげいじゅうごうんどう)とは1940年菊池寛の発案によって設立された、文学者が翼賛運動を行う組織。全国各地で講演会を開いた。この発想が、文芸家協会などを包摂した新組織(のちの文学報国会)へとつながった。

文芸銃後運動講演会

1940年(昭和15年)5月より、文芸家協会主催、東京日日新聞大阪毎日新聞などの後援により全国各地で文芸銃後運動大講演会が開催された。第一回は、5月6日に浜松市公会堂で行われたもので、久米正雄が「文芸的事変処理」、横光利一が「現在考うべきこと」、岸田国士が「現代風俗について」、中野実が「帰還の言葉」と題して講演を行った。また、紅一点で参加した林芙美子は「最近の娘さんは緊張を欠いている」と熱弁をふるった[1]。 後援会は、その後、静岡市岐阜市名古屋市京都市大阪市神戸市和歌山市で行われ、徳川夢声吉川英治菊池寛らの途中参加も計画された[2]

脚注

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  1. ^ 浜松公会堂で第一声『東京日日新聞』(昭和15年5月7日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 久米正雄、横光利一『大阪毎日新聞』(昭和15年5月7日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

関連項目

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文芸銃後運動

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横光利一」の記事における「文芸銃後運動」の解説

1940年昭和15年8月に、温海温泉滞在する日本文学者会議発起人となる。1940年10月菊池寛高見順林芙美子と共に文芸銃後運動講演会のため、四国赴く横光基本的に自由主義者であった祖国勝利を信じていた愛国者でもあった。他方ナチス焚書抗議する意味で結成され学芸自由同盟にも参加したこともあった。 1941年昭和16年5月、文芸銃後運動中部地方班に参加1941年8月箱根日本精神道場行なわれ大政翼賛会中央訓練所主催第一回特別修練会の<みそぎ>に参加した滝井孝作中村武羅夫参加したみそぎからは「極度に謙虚」になることを体験し天地、神、人間自然について考え、「みそぎほど生理的なものはない」と書いている。しかし雑誌では匿名記事修練参加非難したり、自宅には攻撃的な投書届いた

※この「文芸銃後運動」の解説は、「横光利一」の解説の一部です。
「文芸銃後運動」を含む「横光利一」の記事については、「横光利一」の概要を参照ください。

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