文芸銃後運動
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文芸銃後運動(ぶんげいじゅうごうんどう)とは1940年菊池寛の発案によって設立された、文学者が翼賛運動を行う組織。全国各地で講演会を開いた。この発想が、文芸家協会などを包摂した新組織(のちの文学報国会)へとつながった。
文芸銃後運動講演会
1940年(昭和15年)5月より、文芸家協会主催、東京日日新聞、大阪毎日新聞などの後援により全国各地で文芸銃後運動大講演会が開催された。第一回は、5月6日に浜松市公会堂で行われたもので、久米正雄が「文芸的事変処理」、横光利一が「現在考うべきこと」、岸田国士が「現代風俗について」、中野実が「帰還の言葉」と題して講演を行った。また、紅一点で参加した林芙美子は「最近の娘さんは緊張を欠いている」と熱弁をふるった[1]。 後援会は、その後、静岡市、岐阜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、和歌山市で行われ、徳川夢声、吉川英治、菊池寛らの途中参加も計画された[2]。
脚注
関連項目
- 日本文学報国会
- 文装的武備
- 文化戦犯
リンク
文芸銃後運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)
1940年(昭和15年)8月に、温海温泉に滞在する。日本文学者会議の発起人となる。1940年10月に菊池寛、高見順、林芙美子らと共に文芸銃後運動講演会のため、四国へ赴く。横光は基本的には自由主義者であったが祖国の勝利を信じていた愛国者でもあった。他方、ナチスの焚書に抗議する意味で結成された学芸自由同盟にも参加したこともあった。 1941年(昭和16年)5月、文芸銃後運動中部地方班に参加。1941年8月に箱根の日本精神道場で行なわれた大政翼賛会中央訓練所主催の第一回特別修練会の<みそぎ>に参加した。滝井孝作、中村武羅夫も参加したみそぎからは「極度に謙虚」になることを体験し、天地、神、人間、自然について考え、「みそぎほど生理的なものはない」と書いている。しかし雑誌では匿名記事で修練参加を非難したり、自宅には攻撃的な投書が届いた。
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