大坪砂男(おおつぼ・すなお)
本名和田六郎。1904年(明37)、東京牛込生まれ。筆名はホフマンの「砂男」からとった。
父は鉱物学者の和田維四郎で、東大教授、八幡製鉄所所長、貴族院議員を歴任し、従三位勲一等。
東京薬学専門学校卒。谷崎潤一郎の弟子や警視庁刑事部鑑識課勤務(玉ノ井バラバラ事件などを手がける)、画商を営んだりした。画商を辞めたきっかけは客に誤って贋作を販売したためらしい。
処女作は「苦楽」海外版に掲載された「二月十三日午前二時」である。そのほかに、弟子であった都筑道夫が保管している長篇私小説がある。
1948年(昭23)、佐藤春夫の勧めによって書いた「天狗」を「宝石」に発表。探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1949年版」に収録される。また、1949年(昭24)、第2回探偵作家クラブ賞短編賞の候補となる。同時に1948年(昭23)に「宝石」に発表した「赤痣の女」も候補となる。
1949年(昭24)、「宝石」に掲載した「涅槃雪」と「私刑」により、1950年(昭25)、第三回探偵作家クラブ賞受賞。同時に1949年(昭24)に「宝石」に発表した「黒子」も候補作となっている。同時に「涅槃雪」は探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1950年版」に収録される。
1950年(昭25)、「新青年」に掲載された木々高太郎主宰の文学派座談会「抜き打ち座談会」に参加するなど、文学派の第一人者として活躍した。
1950年(昭25)に大坪沙男名義で「週刊朝日」増刊に発表した「花売娘」が、探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1951年版」に収録される。
1951年(昭26)、筆名を大坪沙男にあらためるが、1953年(昭28)に再度戻す。
1951年(昭26)に「宝石」に大坪沙男名義で発表した「虚影」が1952年(昭27)に第5回探偵作家クラブ賞候補となる。同時に探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1952年版」に収録される。
1952年(昭27)に関西探偵作家クラブ会報「KTSC」誌上で覆面子“魔童子”とのあいだで論争が起こった。魔童子の正体は、高木彬光と山田風太郎だった。
1953年(昭28)に「宝石」に発表した「胡蝶の行方」が1954年(昭29)に第7回探偵作家クラブ賞の候補となる。同時に探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1954年版」に収録される。
1956年(昭31)からは、氷川瓏とともに幹事となり、木々高太郎邸で文学派探偵作家を主として招いた新年会を催し、恒例となった。
1954年(昭29)に「宝石」に発表した「外套」が1955年(昭30)に第8回探偵作家クラブ賞候補作となる。また、日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1955年版」に収録される。しかし、この作品と「街かどの貞操」は第一稿を都筑道夫が書いたという。
1955年(昭30)に「週刊朝日」に発表された「白い文化住宅」が、1956年(昭31)に第9回探偵作家クラブ賞候補作となる。また、日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1956年版」に収録される。
ポーばりの詩美性、科学性、戯作性に優れているが、日本探偵作家クラブの幹事長時代に運営資金を使い込み、退会。晩年は柴田錬三郎のアイデア提供者として過ごした。少年時代は恵まれた生活を送ったが、流行作家になってからも寡作だったため、新宿花園街にある三畳間に住み、一日にコッペパンひとつと牛乳、キュウリ一本で暮らすなど、極度の貧困生活を送った。後期の作品の幾つかは代作の噂がある。
江戸川乱歩は、香山滋、島田一男、山田風太郎、高木彬光、大坪砂男を戦後派五人男と呼んだ。
1965年(昭40)、肝硬変と胃癌のため死去。
大坪砂男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/21 02:11 UTC 版)
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誕生 |
1904年2月1日 東京市 |
死没 | 1965年1月12日(60歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | ![]() |
最終学歴 | 東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学) |
活動期間 | 1948年 - 1962年 |
ジャンル | 推理小説 |
代表作 | 「天狗」 「立春大吉」 「私刑」 「男井戸女井戸」 |
主な受賞歴 | 探偵作家クラブ賞(1950年) |
デビュー作 | 「三月十三日午前二時」 |
子供 | 和田周 |
親族 | 和田維四郎(父) 虚淵玄(孫) |
影響を与えたもの
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1904年2月1日 - 1965年1月12日)は、日本の探偵小説作家。本名和田 六郎。筆名はE・T・A・ホフマンの「砂男」に由来する。1951年に大坪 沙男と改名したが[1]、53年に再び砂男に戻した[2]。
(おおつぼ すなお、江戸川乱歩が「戦後派五人男」と呼んだ探偵作家5人のうちの1人。作品はすべて短篇である。
来歴
日本における鉱物学の先駆者である和田維四郎(東京帝国大学教授、八幡製鉄所長官、貴族院議員)の三男(姉妹を含めて六番目の子)。
東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷薬王寺町に生まれる。東京府立第四中学校から東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)を卒業。このときの同級生に映画評論家の岩崎昶がいた。
同校を卒業後、たまたま知り合った谷崎潤一郎が兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区岡本)に居住していたため、そこを訪ねて住み込みの書生となる。このとき谷崎夫人(のち佐藤春夫夫人。心理学者佐藤方哉の母)千代と密通[3][4]。『蓼喰ふ虫』の阿曾のモデルとなる[5]。小谷野敦は「千代が和田の子を妊娠していたのを(谷崎が - 引用者註) 中絶させたのではないか」と推測している[6]。
その後、陶工を志したり、株に手を出したりした後、警視庁の吏員として鑑識課に勤務し、8年間在職する。1932年には玉ノ井バラバラ事件を担当した。このとき上司の妻と恋仲になり、そのことが原因で退職したと伝えられる[7]。のち画商に転ずるも、不注意で贋作を販売した責任を取って廃業し、長野県南佐久郡野沢町(現在の佐久市)に疎開、ここで終戦を迎える。
戦後の預金封鎖で一般の生活費は月500円と決められていた時期、自由業者の場合は別に500円が追加されることを知る。美術商時代の知人の佐藤春夫が佐久に疎開していた縁で佐藤に頼んで弟子の証明を受ける。これ以後、佐藤に師事。
1948年、一人の偏執狂が些細な理由から殺人を行うまでを飛躍に富んだ文章で描いた「天狗」を、佐藤の推薦で『宝石』誌に発表。これが代表作となる。山田風太郎、高木彬光、島田一男、香山滋と共に、江戸川乱歩から「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。1950年、「私刑(リンチ)」等で探偵作家クラブ賞(現在の日本推理作家協会賞)短篇賞受賞[8]。同年、初の作品集『私刑(リンチ)』(岩谷選書)が刊行された[9]。しかし、日本探偵作家クラブ(現在の日本推理作家協会)の幹事長時代に運営資金を使い込み、退会。また寡作ゆえに貧困に苦しみ、晩年は柴田錬三郎のアイデアマンに身をやつした[10]。
1962年、ショートショート「天来の着想」を『サンデー毎日特別号』に発表。これが大坪砂男名義で発表した最後の作品になった。1965年、肝硬変と胃癌で死去。
門人に都筑道夫がいる。
家族・親族
息子に俳優、声優、劇作家の和田周、孫に小説家、脚本家の虚淵玄がいる。[11]
著書
作品集
個人全集
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- 『大坪砂男全集1 立春大吉(本格推理篇)』 2013年1月
- 『大坪砂男全集2 天狗(奇想篇・時代篇)』 2013年3月
- 『大坪砂男全集3 私刑(サスペンス篇)』 2013年5月
- 『大坪砂男全集4 零人(幻想小説篇・コント篇・SF篇)』 2013年7月
関連項目
脚注
- ^ 探偵作家クラブ会報1951年7月号所載「改名由来の記」
- ^ “会員名簿 大坪砂男”. 日本推理作家協会. 2023年7月26日閲覧。
- ^ 谷崎終平「兄・潤一郎と千代夫人のこと」(『文學界』1988年5月号)
- ^ 瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』(中央公論新社、1999年)
- ^ 小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』pp.185-187(中央公論新社、2006年)
- ^ 『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』p.187(中央公論新社、2006年)
- ^ 山村正夫『推理文壇戦後史』p.218(双葉社、1973年)
- ^ “1950年 第3回 日本推理作家協会賞 短編部門”. 日本推理作家協会. 2023年7月26日閲覧。
- ^ “岩谷選書・全集”. ちっちゃな推理小説の図書室“宝石”. 2023年7月26日閲覧。
- ^ “探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典-お-”. 探偵小説専門誌「幻影城」と日本の探偵作家たち. 2023年7月26日閲覧。
- ^ 『零人 (大坪砂男全集4)』東京創元社 2013年7月27日、p.601
外部リンク
- 創元推理文庫版〈大坪砂男全集〉全4巻刊行記念 和田周インタビュー(聞き手・日下三蔵)[2013年2月] - 息子の和田周のインタビュー
- 大坪砂男:作家別作品リスト - 青空文庫
固有名詞の分類
- 大坪砂男のページへのリンク