ダーヴィト・ポッパーとは? わかりやすく解説

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ダーヴィト・ポッパー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/03 19:48 UTC 版)

ダーヴィト・ポッパー
基本情報
生誕 (1843-06-16) 1843年6月16日
オーストリア帝国 ボヘミア プラハ
死没 (1913-08-07) 1913年8月7日(70歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国 バーデン・バイ・ウィーン
ジャンル クラシック音楽
職業 チェリスト作曲家
担当楽器 チェロ

ダーヴィト・ポッパー: David Popper1843年6月16日 - 1913年8月7日 バーデン・バイ・ウィーン)は、オーストリア=ハンガリー二重帝国チェロ奏者・作曲家ユダヤ系チェコ人

生涯

1843年、プラハの音楽教師の家庭に生まれた。プラハ音楽院に学び、ハンブルク出身のチェリスト、ユリウス・ゴルターマン(de:Julius Goltermann)にチェロを師事して間もなく注目を集めた。1863年に最初の演奏旅行を行い、特にドイツにおいてハンス・フォン・ビューローの称賛を浴びた。引き続き演奏旅行を続け、スイスオランダイングランドでも成功を収めた。

1867年ウィーンにデビューし、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団の首席チェロ奏者に就任。しかし1873年に、より大規模な演奏旅行に取り組むことが出来るようにオーケストラを退団し、ヨーロッパ全土で演奏会を催した。1882年フランスヴァイオリニストエミール・ソーレとともにスペインポルトガルで演奏会を開いた。また、1890年にはブダペストブラームスピアノ三重奏曲第1番の初演をし、ブラームスと共演した。

1872年に、フランツ・リスト門下の女性ピアニストゾフィー・メンター1846年1918年)と結婚したが、1886年離婚した。1896年よりブダペスト音楽院で教鞭を執った。フバイと親しかったが、バルトークと犬猿の仲であったといわれる。1913年、オーストリアで亡くなった。

ポッパーは当時のチェロの巨匠であっただけでなく、幅広いレパートリーを誇る演奏家であった。作曲家としてチェロのために数多くの作品を残し、4作のチェロ協奏曲や、3台のチェロと管弦楽のための《鎮魂歌 Requiem 》(1891年)があるが、今日でも演奏されるのは、《タランテラ》などのおびただしい数のサロン小品である。

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