よしだ‐しげる【吉田茂】
吉田茂
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吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家[1]。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓・竹内(#生い立ち)。
注釈
- ^ ただし、ジョン・ダワーは「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日横須賀に生れたといわれる。」と著書に記している[2]。
- ^ 事務方の次官が「事務次官」と称されるのは1949年の改正国家行政組織法施行以降のことで、当時は単に「(外務)次官」と称していた。
- ^ ただし、大村立三は著書にて、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎・谷正之を挙げている。また、奉天総領事・外務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は、幣原や重光と比較した場合にはアジア進出に対してより積極的であったとする見解をとっている[10]。
- ^ 牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月家の縁で高鍋出身の海軍中将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦か航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だったと、吉田は自著に記している[14]。
- ^ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、国葬当日のスポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した[35]。
- ^ 国葬の様子について、読売新聞は「弔辞はことごとく型通りのものだった。喜楽を分けたはずの親しい人の弔辞も制限された。参列者も、各省ごとに、機械的に割り当てられ、人選された」「“国葬”というより、無感動な“官葬”という気がしてならなかった」と批判的に報じている[36][37]。
- ^ 松平は元会津藩主で京都守護職の松平容保の六男で、長女の節子は秩父宮の妃になっていた。
- ^ 鳩山はこの「追放が解除されたら……」を含めて4条件であったと主張していた[74][3]。
- ^ これが最後の「組閣の大命」である。
- ^ 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)。
- ^ 翌1968年(昭和43年)9月に吉田邸が盗難に遭った際に失われ、発見されないまま1975年(昭和50年)9月に時効を迎えた[92]。
- ^ 戸籍上の名は“コト”である。
- ^ 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが[101]、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。
- ^ 和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。
出典
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吉田茂
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吉田茂
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「ワシズ -閻魔の闘牌-」の記事における「吉田茂」の解説
北海道を「アメリカ49州計画」に組み込むためにワシズを龍神へ送り込むが、失敗する。
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吉田茂(よしだ しげる)
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「この女に賭けろ」の記事における「吉田茂(よしだ しげる)」の解説
台東支店の渉外。内気な性格で、ノルマの重圧に耐えられずに失踪するが、偶然に浩美に発見され、彼女の励ましで思い直す。古い建物や史跡などを巡るのが趣味。仕事はコツコツと進めていくタイプ。原島に淡い恋心を抱く。
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吉田茂
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「日本のいちばん長い夏」の記事における「吉田茂」の解説
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吉田茂
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「GHQ草案手交時の脅迫問題」の記事における「吉田茂」の解説
GHQ草案手交時の当事者の一人だった吉田茂は、『世界と日本』(1963年)で、「憲法押しつけ説」につき、「世には新憲法制定過程における総司令部の異常な督促ぶりに対する非難をこめて、マッカーサー憲法などと称するものがあるが、もしそこに強制の事実がありとしても、それは日本政府が総司令部によって強制されたのではなく、総司令部を含めた日本そのものが、四囲の情勢によって強制されたものである。その間におけるマッカーサー元帥のわが皇室に対する敬意と好意とは、没却すべからざる事実であり、その意味においては正にマッカーサー憲法といって差支えないであろう。この間の事情は憲法調査会の調査結果でも明らかになったはずである」としている。
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「吉田 茂」の例文・使い方・用例・文例
- 私、株式会社下田電機の開発部の吉田と申します。
- 僕はレースで君を吉田君に対抗させることを考えているんだ。
- 私はその秘密を吉田さんからききだしました。
- 私たちは先日、吉田君を我が野球チームのキャッチャーに選んだ。
- 吉田先生は私にすぐ来るように指示した。
- 吉田氏は決して約束を破らない。
- 吉田君はフランスの歴史が詳しいです。
- 吉田さんは子供に対して厳格すぎる。
- 吉田、ゆっくりやれよ。
- 5年ぶりに吉田君に会った。
- 君は吉田君となら互角だ.
- 彼は吉田松陰の門下生であった
- 正月19日,女が京都の吉田神社に参詣すること
- 富士吉田市という市
- 1992年バルセロナオリンピックの男子78キロ級の金メダル獲得者である吉田秀彦さん(32)が,子どもたちに柔道を教えるため,6月末,「吉田道場」を開いた。
- 吉田さんは,そのような試合に参加する最初の日本人五輪金メダリストになる。
- 吉田さんは4月の全日本選手権の後,柔道の現役を引退した。
- コーチとして,吉田さんは柔道に大いに貢献した。
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