吉田茂とともに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:37 UTC 版)
戦後は、鳩山とともに旧政友会正統派鳩山系勢力を糾合し、日本自由党の結党に参加。総務となる。 昭和21年(1946年)5月に鳩山が公職追放となったため、後継総裁をめぐり古島一雄、松平恒雄、外務大臣の吉田茂らの名前が取りざたされる中で、鳩山とともに吉田を訪問し、後継を打診するが拒否される。鳩山はあきらめたが、松野はそれから夜な夜な吉田のもとを訪れて「総理概論」とでもいうべき講義を行い、ついには吉田をその気にさせてゆく。 1946年5月13日、深夜、鶴平が外相官邸の塀を乗り越えて、これに忍び込み、寝ていた吉田茂を起こし、朝まで総裁になるようにと説得しつづけた。吉田茂は根負けして総裁となり、第一次吉田内閣が発足する。 鶴平は党務に弱い吉田首相の私的政治顧問として、吉田内閣を支えることになる。政界の寝業師として、同年の抜き打ち解散を吉田首相に進言したり、吉田派と鳩山派の政権抗争では仲介役を務めた。 松野自身も公職追放となっていた、代わりに三男・松野頼三を立候補させる。昭和22年(1947年)の総選挙で、頼三が初当選した。1948年、第二次吉田内閣の発足に際しても、裏舞台で吉田内閣を支え続けていたことが『小説吉田学校』に描かれている。 昭和27年(1952年)の追放解除後は、参議院議員に当選する。このとき「子どもから大人までたくさんの人が手を振って迎えてくれたことが非常に嬉しかった。政治というものは常に国民と一心同体でなければならないと痛感した」という言葉を残している。
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