日銀マンとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行した。1944年には、日本銀行の理事に就任した。1946年、前任の新木榮吉の公職追放に伴い、日本銀行の第18代総裁に就任した。インフレーション下の戦後日本経済再建のため、日本銀行は金融面での絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取った。 1951年のサンフランシスコ講和会議では、大蔵大臣の池田勇人、国民民主党最高委員長の苫米地義三、自由党の星島二郎、緑風会総会議長の徳川宗敬とともに全権委員となり、首席全権である内閣総理大臣の吉田茂とともにアメリカ合衆国を訪問した。 1954年、日本銀行総裁を辞任した。一萬田の後任には、かつて総裁を務めた新木榮吉が再び就任した。
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