あらき‐えいきち【新木栄吉】
新木 栄吉 (あらき えいきち)

氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 新木 栄吉 (あらき えいきち) 昭和20.10. 9(一度目、第17代)昭和29.12.11(二度目、第19代) 昭和21. 6. 1(一度目、第17代)昭和31.11.30(二度目、第19代) 石川県 |
17代目および19代目の日本銀行総裁である新木栄吉は、明治24年石川県小松町に生まれました。東京帝国大学を卒業と同時に日本銀行に入行し、営業局長、理事、副総裁を経て昭和20年10月第17代総裁に就任しました。もっとも、翌年に施行された公職追放令により、在任僅か7ヶ月余りで辞任せざるを得ませんでした。 追放令解除とともに昭和26年に東京電力会長に就き、駐米大使を経て、昭和29年に第19代日本銀行総裁として返り咲くと、強い決意を持って政策の運営に当たりました。すなわち、昭和31年、それまで全額日銀引受で発行されていた政府短期証券(FB)の公募を実現しました。その後も、事実上発行金利が市場金利を下回る水準に据え置かれ、ほぼ全額を日銀引受とせざるを得ない状況を憂慮し、これを市場の実勢に合わせるべきだとして政府と粘り強く交渉しました。また、終戦以来金融政策の中心的手段と考えられてきた高率適用制度(市中銀行の日銀借入について公定歩合以上の金利を課す制度)を見直し、公定歩合を弾力的に操作しようと試みたことも知られています。 在任中に病に倒れ、総裁辞任後は静養に努めましたが、その効なく昭和34年に亡くなっています。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1999年夏季号)』) |
新木栄吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/29 00:04 UTC 版)

新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月24日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、大正から戦後昭和に活躍した日本の銀行家。日本銀行総裁を2度にわたって務めたほか、戦後初の駐米大使も務めた。
来歴
石川県小松町(現 小松市)出身。石川四中から第四高等学校 (旧制)首席を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年日本銀行に入行。
日本銀行では国庫局、大阪支店、ニューヨーク駐在(1922年-1926年および1935年-1937年の二度[1])などを経たのち、外国為替局長、営業局長、理事、副総裁を歴任。1945年(昭和20年)10月に渋沢敬三総裁が幣原内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、その後任の日銀総裁に就任した[2]。日銀生え抜きで民間への転出を一度も経験することなく総裁となったのはこの新木が初めてだったが、 翌年6月1日に公職追放となり、在任8か月で不慮の辞任を余儀なくされた[3]。追放解除後の1951年(昭和26年)には設立されたばかりの東京電力会長に迎えられ、翌年6月には戦後初の駐米大使としてワシントンD.C.に着任したが、新木通告事件などにより1年後の1953年(昭和28年)12月に解任された[4]。1954年(昭和29年)にかつて自身の後任として日銀総裁になった一万田尚登が第1次鳩山一郎内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、新木はその後任として8年ぶりに2度目の日銀総裁に就任した。しかし2年後に今度は病気で総裁を辞任することになった。
参考文献
脚注
外部リンク
- 第17、19代総裁:新木栄吉 - 日本銀行
固有名詞の分類
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