みうら‐たまき【三浦環】
三浦環
三浦 環 (みうら たまき)
1884〜1946 (明治17年〜昭和21年) |
【声楽家】 プッチーニが「世界でただ一人の蝶々」と讃えたソプラノ歌手。日本人初の国際的プリマドンナ。 |
明治?昭和期のソプラノ歌手。東京都出身。旧。日本オペラ創成期の世界的プリマドンナ。1904年(明治34)東京音楽学校卒。在学中の1903年日本人による初の歌劇「オルフォイス」に出演。10年帝劇歌劇部専属歌手となる。15年(大正4)ロンドンで世界的指揮者ヘンリー・ウッドに見いだされ、欧米各地で「蝶々夫人」を公演して好評を博した。作曲家プッチーニは「世界でただ一人の理想的な蝶々」と激賞した。 |
年(和暦) | ||
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 5才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 10才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 19才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 20才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 23才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 26才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 34才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 39才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 44才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 48才 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 52才 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 57才 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 61才 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 62才 |
・寺田 寅彦 | 1878年〜1935年 (明治11年〜昭和10年) | +6 |
・大河内 正敏 | 1878年〜1952年 (明治11年〜昭和27年) | +6 |
・吉田 茂 | 1878年〜1967年 (明治11年〜昭和42年) | +6 |
・有島 武郎 | 1878年〜1923年 (明治11年〜大正12年) | +6 |
・鏑木 清方 | 1878年〜1972年 (明治11年〜昭和47年) | +6 |
・永井 荷風 | 1879年〜1959年 (明治12年〜昭和34年) | +5 |
・大正天皇 | 1879年〜1926年 (明治12年〜昭和元年) | +5 |
・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | +4 |
・石井 柏亭 | 1882年〜1958年 (明治15年〜昭和33年) | +2 |
・福原 信三 | 1883年〜1948年 (明治16年〜昭和23年) | +1 |
・高村 光太郎 | 1883年〜1956年 (明治16年〜昭和31年) | +1 |
・鳩山 一郎 | 1883年〜1959年 (明治16年〜昭和34年) | +1 |
・石橋 湛山 | 1884年〜1973年 (明治17年〜昭和48年) | 0 |
・東条 英機 | 1884年〜1948年 (明治17年〜昭和23年) | 0 |
・安田 靫彦 | 1884年〜1978年 (明治17年〜昭和53年) | 0 |
・武者小路 実篤 | 1885年〜1976年 (明治18年〜昭和51年) | -1 |
・平塚 らいてう | 1886年〜1971年 (明治19年〜昭和46年) | -2 |
・山田 耕筰 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | -2 |
・谷崎 潤一郎 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | -2 |
・松旭斎 天勝 | 1886年〜1944年 (明治19年〜昭和19年) | -2 |
・柳 宗悦 | 1889年〜1961年 (明治22年〜昭和36年) | -5 |
・古今亭 志ん生 | 1890年〜1973年 (明治23年〜昭和48年) | -6 |
・山川 菊栄 | 1890年〜1980年 (明治23年〜昭和55年) | -6 |
三浦環
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/10 14:39 UTC 版)
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。
- ^ 出生地を東京市芝区(現:東京都港区芝)としているサイトも存在する[3]。ただし、少なくとも東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)入学以降は東京市芝区に在住していた[4]。
- ^ 「ピアノを瀧廉太郎に、声楽をユンケルに習う」と記述しているものも存在する[1]。
- ^ この公演は東京帝国大学と東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)、東京音楽学校の学生や卒業生によって開催されたもので、演目はクリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲の「オルフェオとエウリディーチェ」で、三浦は主役にあたるエウリディーチェ役を演じた。当時は本格的なオーケストラが存在しなかったため、ピアノ伴奏によって開催されたとされている[5][7]。
- ^ 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興活動を通じて集まった婦人団体からなる「東京連合婦人会」が公演を主催した。環が務めたタイトル・ロール(蝶々夫人)以外の主要キャストとしては海軍士官ピンカートン役に永田絃次郎と渡邊光のダブルキャスト、アメリカ領事シャープレス役には下八川圭祐が起用された。この他、演出は伊庭孝が担当し、管弦楽は篠原正雄が指揮する中央交響楽団が担当した[14]。
- ^ 前述の“2001回目”の公演から約7ヶ月後の1937年(昭和12年)1月28・29日に大阪市中央公会堂にて開催された環主演による「蝶々夫人」は関西地方での初公演となり、環による日本語訳の歌詞が使用された。この公演は東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)の卒業生で組織された「同声会」大阪支部の主催で開催されたもので、支部長を務めていた永井幸次は大阪音楽学校の創立者としても知られている[16]。
- ^ 開催にあたっては、当時入院していた大東学園病院の医師が付き添い、注射を打つなど常時待機していた。また、舞台上へは振袖を着用し、マネージャーや弟子の手を借りながら登場していた[12][19]。
- ^ 最初の録音は4月5日に行われ、シューベルトの歌曲集「冬の旅」全曲を収録した。2回目は4月9日で自身の十八番である“蝶々夫人”から「ある晴れた日に」「ハミングコーラス」「操に死ぬるは」と義太夫節「三十三間堂棟由来」(浄瑠璃「祇園女御九重錦」三段目)から「木遣歌」を収録した。同時にジャコモ・プッチーニとの思い出も収録した。3回目は4月16日に行われ、「庭の千草」「ケンタッキー・ホーム」「ホーム・スイート・ホーム」などのポピュラー曲を管弦楽伴奏付きで収録している。これら計3回の録音のうち、2回目の録音では当時のNHK第1スタジオが使用され、管弦楽(クラウス・プリングスハイム指揮)が準備された一方、舞台裏には簡易便器も用意されていたという[20]。
- ^ a b c d “世界のプリマドンナ三浦環とは/プロフィール”. マダム・バタフライとは. マダム・バタフライ インターナショナル財団. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
- ^ a b c d e “コンクールについて”. 静岡国際オペラコンクール. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
- ^ 酒井義夫(いずみ書房創業者) (2014年5月26日). “『蝶々夫人』の三浦環〜今日はこんな日”. 児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ. いずみ書房. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。
- ^ a b 江本弘志 『日本人歌手ここに在り!:海外に雄飛した歌い手の先人たち』文芸社、2005年、10頁。ISBN 483558922X。
- ^ a b c d e f g h i “人間の記録27 三浦環”. 一般・図書館向け〜文芸・読みもの. 日本図書センター (1997年6月). 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
- ^ 「蝶々夫人」を1910-30年代に欧米で歌ったソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生坪井賢一、ダイヤモンド社、ダイヤモンドオンライン、2014.8.22
- ^ a b c 網倉俊旨date=2010-03-11. “歩いてみよう、上野界隈・第二回「旧東京音楽学校奏楽堂」”. 春祭ジャーナル~東京・春・音楽祭. 東京・春・音楽祭実行委員会. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
- ^ 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) (2014年8月22日). “「蝶々夫人」を1910-30年代に欧米で歌ったソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生(全6頁中2頁目)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。 “かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史【第58回】”《》
- ^ 山田耕筰 『自伝 若き日の狂詩曲』中公文庫(中央公論新社)、1996年6月。ISBN 4122026245。"改版あり(初回刊行「2016年1月21日」・ISBN「4122062187」)"。
- ^ 『ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集』「日本SP名盤復刻選集Ⅰ」(解説書). ロームミュージックファンデーション. (2004年)
- ^ 『読売新聞』1922年8月3日(倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍(東書選書 124)、1992年、113頁。ISBN 4-487-72224-1)。
- ^ a b c d e f g 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) (2014年10月3日). “日本人初の世界的なオペラ歌手として活動した三浦環20年間の最盛期をたどってみた(全6頁中4頁目)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。 “かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史【第61回】”《》
- ^ “三浦環 みうら たまき”. コトバンク. 朝日新聞社. 2016年3月13日閲覧。
- ^ “三浦環主演 グランドオペラ《蝶々夫人》”. 昭和音楽大学オペラ研究所オペラ情報センター. 昭和音楽大学. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。《》
- ^ “日本人初の世界的ソプラノ、三浦環誕生(1884~1946)”. おんがく日めくり. ヤマハ. 2007年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。《》
- ^ 大阪音楽大学創立100周年誌編集室. “関西音楽史のなかの大阪音楽大学(大阪音楽大学の歴史)”. 学校法人大阪音楽大学100周年記念事業. 大阪音楽大学. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。 “ページ表示後、中程に掲載されている年表上部に並ぶタブのうち「1931年-1945年」タブをクリック”《》
- ^ a b “三浦 環”. 山中湖村ホームページ(旧). 山中湖村. 2008年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。
- ^ 工藤正義(三島由紀夫文学館). “人物「三島由紀夫・三浦環・徳富蘇峰と山中湖」”. 山中湖村エコツーリズム. 山中湖村エコツーリズム推進協議会. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。《》
- ^ a b c d e 『三浦環のプロフィール』:新字新仮名 - 青空文庫《→アーカイブ〔カード(表紙)・作品本文〕》
- ^ a b c 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) (2014年10月3日). “日本人初の世界的なオペラ歌手として活動した三浦環20年間の最盛期をたどってみた(全6頁中5頁目)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。 “かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史【第61回】”
- ^ “寿徳寺・三浦環墓碑”. 山中湖観光協会. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。
- ^ “寿徳寺”. 山中湖村観光課公式サイト. 山中湖村. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。
- ^ 4.三浦環像?旧自由亭(「ナガジン」発見!長崎の歩き方) - 長崎市役所
- ^ a b c お蝶夫人、三浦環、右文社、1947(昭和22)年5月10日
- ^ 千葉秀浦著作集国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 三浦環の怪寫眞『実話ビルディング : 猟奇近代相』武内真澄 著 (宗孝社, 1933)
- ^ 孔雀女『茶話 大正六(一九一七)年』薄田泣菫、大阪毎日新聞
- ^ 吉田昌志「泉鏡花「年譜」補訂(9)」『学苑』第855号、光葉会、2012年1月、45-58頁、ISSN 1348-0103、NAID 110008729486。
- ^ 若柳 燕嬢(読み)ワカヤギ エンジョウコトパンク
- ^ 柴咲コウ「エール」で朝ドラ初出演「うれしい」も世界的オペラ歌手役に苦戦「壁に…」基礎から声楽練習 スポニチAnnex 2020年2月3日閲覧
三浦環(みうら たまき)
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「三浦 環」の例文・使い方・用例・文例
- 三浦容疑者の拘置中の過ごし方が明らかになった。
- 三浦氏はある週刊誌に対して名誉毀損の訴えを起こした。
- プロスキーヤーの三浦さん,69歳で新記録達成
- 5月9日,69歳のプロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さんと,息子の豪太(ごうた)さんが,ネパールのヒマラヤ山脈にある8201メートルの高さのチョーオユーに登頂した。
- 森本選手がフィールドに出たすぐ後に,ヴェルディのミッドフィルダー三浦淳(あつ)宏(ひろ)選手が,試合を同点にするゴールを決めた。
- 選抜チームは後半37分に44歳の三浦知(かず)良(よし)選手のゴールで反撃した。
- 中山選手と三浦知(かず)良(よし)選手は1990年代に日本代表でとても活躍した。
- 三浦選手は,中山選手の引退会見の前日に中山選手の引退を知らされた。
- 三浦選手は「彼の決断なのでそれを尊重したい。でも,彼がプレーするのを見られないのは寂しい。」と話した。
- 3月6日,宮城県の高校3年生,三浦ほのかさんが「国連水と災害に関する特別会合」で英語のスピーチを行った。
- 三浦さんは東日本大震災の被災者だ。
- スピーチの中で三浦さんは,被災地の人々を支援するためにさまざまな国からやって来たボランティアに感謝の意を表した。
- 三浦さんはまた,彼女や他の地元の10代の若者たちが自分たちの町の再建に対してどのように正式な提案を行ったかについて話した。
- その後,三浦さんはその会合に出席されていた皇太子さまと面会した。
- 皇太子さまに今後どのようなことをする予定かと尋ねられたとき,三浦さんは「ボランティア活動に参加したいです。」と語った。
- 5月23日,三浦雄(ゆう)一(いち)郎(ろう)さん(80)が,8848メートルの世界最高峰エベレストに3度目の登頂を果たした。
- 三浦さんはプロスキーヤーでもある。
- 三浦さんは最近,不整脈の手術を2度受けたが,すぐに回復した。
- 三浦さんの息子で元スキー五輪代表である豪(ごう)太(た)さんは三浦さんの登山隊の一員だった。
- 頂上で,三浦さんは「世界最高の気持ちです。80歳で登頂できるとは想像していませんでした。」と話した。
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