柴田孟甫とは? わかりやすく解説

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柴田孟甫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 09:09 UTC 版)

柴田 孟甫(しばた もうほ、安政元年4月5日〈1854年5月1日〉 - 没年不明)は、明治から大正時代にかけて活動した日本の公証人

女優の三浦環は実娘。

経歴

生い立ちと教育

安政元年(1854年)、静岡県小笠郡朝比奈村(現在の御前崎市)に父・秀吉の長男として生まれる。幼少期より聡明で、早くから和漢の学問に通じ「神童」と評された。14歳の時には、浜松県知事による計算能力者の選抜において第一位に選ばれるなど、若くしてその才を示した[1]

地方での活動から法律の道へ

20歳で戸長に就任し、村の行政事務を担い、その真摯な仕事ぶりで信頼を得た。その後、榛原郡の書記を務めた。地方での活動に留まらず、更なる飛躍を期して上京。明治法律学校(現在の明治大学の前身の一つ)に入学し、法律を学ぶ。在学中は勉学に励み、学校の模範となる存在であったとされ、優秀な成績で卒業した。卒業後は官吏弁護士への道も考えられたが、本人の意思によりその道は選ばなかったとされる[1]

公証人として

明治22年(1889年)8月の公証人規則発布を機に、公証人の職に就く。当時の日本では公証人制度の認知度が低く、その運営には困難も伴ったとされるが、柴田は熱心に業務に取り組み、次第に広範な信望を集め、多忙な日々を送るようになった。紹介文によれば、当時の公証人界において「巨壁」と評されるほどの存在となった[1]。当時の所属は東京地方裁判所であった[2]

懲戒処分

しかし、大正4年(1915年)頃、公証事務の取扱いにおいて複数の不適切行為があったとして、東京控訴院(東京高等裁判所の前身)の公証人懲戒委員会により懲戒処分が下された。具体的には、公正証書作成時の契印や捺印の不備、代理人による手続きの不備、日付記載の誤りや遺漏、委任状の確認不備、印鑑証明書の引用に関する手続き不備などが指摘された。柴田は過去(明治28年〈1895年〉および明治33年〈1900年〉)にも公証人規則違反による過料処分を受けており、これらの事情も考慮され、最終的に免職とする議決がなされた[2]

人物

紹介文によれば、真面目で活動的な人柄であり、学問に熱心であったとされる。また、権力にへつらうことことや、弁舌によって一時的な勝利を得るような手法を好まなかったと記されている[1]

脚注

  1. ^ a b c d 信用名鑑発行所 編『信用名鑑』信用名鑑発行所、1911年(明治44年)4月、146-147頁。doi:10.11501/779823。NDLJP:779823/92。
  2. ^ a b 「彙報(司法)公證人懲戒委員會議決」『官報』第1022号、大蔵省印刷局、1915年12月25日、7面。doi:10.11501/2953132。NDLJP:2953132/7。



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