はせがわ‐にょぜかん〔はせがは‐〕【長谷川如是閑】
長谷川如是閑
長谷川 如是閑 (はせがわ にょぜかん)
1875〜1969 (明治8年〜昭和44年) |
【ジャーナリスト】 反体制言論人として活躍。強烈な批判記事が新聞弾圧「白虹事件」の引き金に。 |
明治?昭和期のジャーナリスト・思想家。本名は山本万次郎。東京都出身。東京法学院卒。新聞「日本」をへて、1908年(明治41)「大阪朝日新聞」に転じ天声人語や評論、小説と活躍。18年(大正7)に政府の言論弾圧に抗議した「白虹(はつこう)日を貫けり」の記事が、政府の告発により筆禍事件に発展し、社長らと引責退社。翌年雑誌「我等」を創刊。第二次大戦後もリベラリストとし芸術院会員となった。著書「現代国家批判など」昭和21年文化勲章受賞。 |
年(和暦) | ||
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 | 1才 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 | 2才 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 | 2才 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 7才 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 8才 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 14才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 19才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 28才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 29才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 32才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 35才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 43才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 48才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 53才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 57才 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 61才 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 66才 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 70才 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 71才 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 | 76才 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 | 78才 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 | 81才 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 | 85才 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 | 85才 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック | 89才 |
●1968年 (昭和43年) | ■GNP世界第2位に | 93才 |
・川上 貞奴 | 1871年〜1946年 (明治4年〜昭和21年) | +4 |
・樋口 一葉 | 1872年〜1896年 (明治5年〜明治29年) | +3 |
・福田 徳三 | 1874年〜1930年 (明治7年〜昭和5年) | +1 |
・上田 敏 | 1874年〜1916年 (明治7年〜大正5年) | +1 |
・荒木 貞夫 | 1877年〜1966年 (明治10年〜昭和41年) | -2 |
・寺田 寅彦 | 1878年〜1935年 (明治11年〜昭和10年) | -3 |
・大河内 正敏 | 1878年〜1952年 (明治11年〜昭和27年) | -3 |
・吉田 茂 | 1878年〜1967年 (明治11年〜昭和42年) | -3 |
・有島 武郎 | 1878年〜1923年 (明治11年〜大正12年) | -3 |
・鏑木 清方 | 1878年〜1972年 (明治11年〜昭和47年) | -3 |
・永井 荷風 | 1879年〜1959年 (明治12年〜昭和34年) | -4 |
・大正天皇 | 1879年〜1926年 (明治12年〜昭和元年) | -4 |
・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | -5 |
長谷川如是閑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/01 19:58 UTC 版)
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日[3])は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。
注釈
- ^ 父・山本徳治郎は後に浅草に「花屋敷」を開業している(現在の「浅草花やしき」)。
- ^ 兄・笑月の著書『明治世相百話』は、中公文庫で新版刊行
- ^ 当時の大阪朝日は、進歩派の鳥居と保守派の西村天囚の対立が激化しており、親鳥居派の如是閑が西村批判を展開したため、社は一挙に鳥居体制に傾いたといわれている。
- ^ このときの記事を集成したものが『倫敦! 倫敦?』である。
- ^ 『我等』は大正から昭和初期の高級評論雑誌。朝日を退社した如是閑が1919年(大正8年)2月に大山や井口孝親らと我等社をたちあげ創刊した。丸山幹治、伊豆富人、大庭柯公らが参加している。
- ^ 大山はのちに左翼政治家に転身。労働農民党委員長、新労農党の衆議院議員などとして活躍した。
- ^ 政治学者の櫻田淳が如是閑の「職人の国」論にもとづいた業績を高く評価している。
出典
- ^ “長谷川如是閑 はせがわにょぜかん”, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, Britannica Japan, (2014)
- ^ “おおはらしゃかいもんだいけんきゅうじょ【大原社会問題研究所】”, 世界大百科事典 (2 ed.), 平凡社
- ^ a b 「長谷川萬次郎」『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』152頁。
- ^ 『政界往来』第48巻、政界往来社、1982、p71
- ^ a b c d e f g h i j k 松岡正剛の千夜千冊「長谷川如是閑”倫敦! 倫敦?”」
- ^ 『学員名簿』中央大学学員会、1927年12月、p.41
- ^ 三浦一郎『世界史こぼれ話5』(1977)p.99
- ^ 『官報』第5748号、昭和21年3月14日、p.109
- ^ 田中浩, “長谷川如是閑 はせがわにょぜかん”, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館
- ^ “長谷川 如是閑 ハセガワ ニョゼカン”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004)
- 1 長谷川如是閑とは
- 2 長谷川如是閑の概要
- 3 格言など
- 4 参考文献
- 5 関連項目
- 6 外部リンク
「長谷川 如是閑」の例文・使い方・用例・文例
- 橋田貿易株式会社の情報システム部のリーダーの長谷川と申します。
- このクラスは長谷川先生の担任です.
- これは,最も接戦だった対抗者,長谷川敬子氏の2倍以上の数である。
- 9回,松井選手は第4打席でマリナーズの長谷川滋(しげ)利(とし)投手からセンターにシングルヒットを打った。
- シアトル・マリナーズの長谷川滋(しげ)利(とし)投手は5回に登板したが,4失点を許した。
- ガラスのチェロを弾(ひ)いたチェリストの長谷川陽子さんは,「音色が木製のものとはまったく違います。ガラスの花瓶に挿(さ)した花になったように感じました。」と話した。
- 日本点字図書館の目の不自由な評議員である長谷川貞(さだ)夫(お)さんが点字ブロックの上を歩くと,どちらに行けば良いかを告げる声が長谷川さんを誘導した。
- ブロックに埋め込まれたICタグからの情報が読み取り機に送られ,その読み取り機が音声の指示で長谷川さんを誘導したのだ。
- 実験後,長谷川さんは,「説明が長すぎるものがあった。全部は覚えられなかった。」と話した。
- 長谷川義(よし)史(ふみ)さんの「いいから いいから」のカードには,小学生の女の子が「このほんをよんで,おともだちにやさしくできるようになったよ。」と書いた。
- 中学3年のとき,長谷川さんは父親の勧めで簿記の勉強を始めた。
- 長谷川さんは簿記を勉強するにつれて,会計に興味を持った。
- 長谷川さんは1日10時間以上勉強した。
- 「新しいことを学ぶのはおもしろかった。一生懸命勉強したから,試験に受かる自信はあった。」と長谷川さんは語った。
- 長谷川さんは高校後の進路を決めていない。
- 「等伯」は安土桃山時代の絵師,長谷川等伯の人生についての物語だ。
- 安倍さんは長谷川の傑作「松(しょう)林(りん)図(ず)屏(びょう)風(ぶ)」を用いて,この有名絵師の隠れた心を探った。
- 内(うち)川(かわ)聖(せい)一(いち)選手を打順の3番に,松田宣(のぶ)浩(ひろ)選手を4番に,長谷川勇(ゆう)也(や)選手を5番に変えたのだ。
- 長谷川選手は,交流戦史上最高打率となる4割1分(ぶ)8厘(りん)で交流戦のMVP(最優秀選手)に選ばれた。
長谷川 如是閑と同じ種類の言葉
評論家に関連する言葉 | 谷川雁 辻潤 長谷川如是閑 青野季吉 高山樗牛 |
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