西晋時代
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西晋の太康9年(288年)に太原郡祁県で生まれる。父の温憺は司徒まで登った伯父の温羨ら兄弟6人で「六龍」と並び称されたという。 温嶠も幼少の頃より博学にして容姿談論に優れ、17歳にして州群の辟召を受けたがこれには就かず、司隷校尉の都官従事となった。この時に当時太傅であった庾敳の斂財を恐れずに弾劾して名を上げ、庾敳も大器であると温嶠を賞賛した。後に東閤祭酒・上党県令となる。やがて平北将軍劉琨の軍に劉琨の妻が温嶠の従母であった縁から参加し、謀主として前趙の石勒との戦いで功を挙げ、劉琨が司空に登ると温嶠も右司馬にまで至った。 しかしながら前趙の強勢の前に西晋は次第に劣勢となり、永嘉5年(311年)には洛陽を失陥した。
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西晋時代
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武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉の鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵の賈沈を遣わして兵を送り、現在の遼寧省鉄嶺市開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州・冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。
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西晋時代
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西晋では、荘園を基盤とする経済が大いに栄えた。天下統一後、帝室・官僚が経済に関わるようになり、商業のさらなる発展を求めてその拡大を促進した。その結果、呉王司馬晏の部下に市場の仕入れについての記入を担当する者が居たとされるほどの規模となった。しかしこの頃既に経済の中心は中原域から長江中下流域に遷っており、最も栄えていたのが建康で、次が江陵であったとされる。戦乱により鋳銭が不足し、貨幣の価値は混乱した。それに対し貿易は発展し、南北の互市と海外貿易は中央政府が掌握していた。それに呼応して私営商業も発達し、交易により食糧、布類、塩などが生活用品や奢侈品として運ばれた。広州では海上貿易が発達し、ヒスイやサイ、象牙や香料や絹が取引された。 西晋は支配地域を郡県制で統一した。魏で行われていた民屯を廃止して郡県制に編入し、民屯にいた農民は一般戸籍に移された。土地制度では、田地の占有を認めた占田と、開墾と耕作の責任を課された課田が実施された。占田制は、中国で初めて農民の土地所有を規制した制度であり、農民世帯が社会の基盤になりはじめたことを表している。
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