西晋の時代
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以降は晋に仕え、武帝より重用された。 初め金城太守に任じられ、次いで敦煌太守となった。優れた統治ぶりにより、その恩恵と威光は甚だ轟いたという。さらにその後、雁門太守に移った。 やがて順陽王司馬暢の下で内史となったが、司馬暢は身勝手な人物であり、過去に何度も内史を誣告しては処刑していた。だが、吾彦は清廉・公正に職務に励み、部下を指導し、刑罰・法律を厳粛に守ったので、人々を大いに畏怖させた。これにより、司馬暢といえどもうかつに誣告することが出来なくなった。その為、司馬暢は吾彦の存在を疎ましく思い、彼を遠ざけるために敢えて上職に推挙した。こうして吾彦は内史職から異動となると、員外の散騎常侍となった。 290年、交州刺史陶璜が没すると、後任の南中都督・交州刺史となった。陶璜の死に乗じて九真郡では守備兵が乱を起こし、太守を追放する事態になっており、賊の頭目である趙祉は郡城を包囲していた。吾彦は着任するやこれらの掃討に当たり、その全てを鎮圧して乱を平定した。その後、20年余りに渡って交州統治の任にあたり、その威信・恩恵は広く知れ渡り、交州には静穏な時が流れたという。 307年12月、成漢と争って暫定的に寧州を統治していた西夷校尉李釗を援護する為、吾彦は子の威遠将軍吾咨を寧州に派遣している。 その後、吾彦は自ら上表して他者と職務を交代する事を請い、要請は認められて中央への帰還を命じられ、同時に大長秋に任じられた。その後、在職中に没したという。
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西晋の時代
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始め西晋に仕え、昇進を重ねて中書侍郎に任じられた。その後、給事黄門郎・滎陽郡太守に移った。 永嘉の乱により天下が乱れると、兄の裴武が玄菟郡太守だった事から、自ら志願して同じ平州にある昌黎郡太守となった。 昌黎郡に着任したが、間もなく裴武が亡くなった。ちょうど朝廷に召還されたこともあり、裴嶷は裴武の子の裴開を連れ、裴武の棺を伴って喪の為に南へ向かった。その途上で、慕容廆の領土を通りがかると、慕容廆は裴嶷を敬い礼遇し、彼が去るときには厚く贈り物をした。その後、裴嶷は遼西まで到達したものの、道が断絶して先へ進めなくなったため、方針を転換して裴開と共に慕容廆の傘下に入ろうと考えた。しかし、裴開はこれに反対して「我等の郷里は南であるのに、どうして北へ向かうのです!もしも、流浪の身となって異郷に留まるとしても、強盛を誇っている段氏の下に行くべきです。慕容氏は弱勢なのに、どうしてこれに就くというのですか!」と言った。これに裴嶷は「中原の大乱はさらに悪化するであろう。それに故郷は遠く、安全に通れるのを待っていては、いつになるやもわからぬ。故郷へ戻る事よりも、この地に留まる事を考えるべきであり、その為には相手を選ぶことが肝腎である。汝は段氏の輩が遠大な展望を持ち、礼をもって士卒を侍らせられると思うのか!慕容公(慕容廆)は仁を修めて義を行い、覇王の志を持っている。さらに、その国は充足しており、民の暮らしは安定している。今、彼の下へ赴けば、功名を立てることも宗族を庇護することもできるのだ。汝はつまらぬ疑念を抱くでない!」と叱責したので、裴開もこれに従った。彼等が戻って来たのを知ると、慕容廆は大喜びで出迎えた。
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西晋の時代
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西晋の太康6年(285年)、武帝司馬炎は遣使の楊顥を送り、藍庾を大宛王に封じた。藍庾が死に、その子の摩之が立ち、朝貢して汗血馬を献じた。 「大宛」の名は西晋まで見られるが、以後はフェルガナの音訳である「破洛那」などが用いられるようになった。
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