西晋黎明期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:25 UTC 版)
265年、魏から禅譲を受けて晋が成立すると、衛瓘は司馬炎に大いに信任され、征東将軍に移って爵を菑陽公に進められた。269年には都督青州諸軍事・青州刺史・征東大将軍・青州牧に、271年には征北大将軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉に任じられた。当時、幽州の東には烏桓が、西には鮮卑拓跋部の拓跋力微が割拠し、いずれも辺境を荒らしていた。衛瓘は烏桓と拓跋力微が対立するよう仕向け、烏桓を晋に帰順させる事に成功した。 また衛瓘は、拓跋部の勢力を削ぐため、諸大人(たいじん、有力者)に賄賂を送って積極的に離間工作を行い、英邁な才覚を有していた拓跋力微の息子である拓跋沙漠汗を讒言して陥れるように仕向けた。拓跋力微がこれを信じ込むと、諸大人は拓跋力微の命と偽り沙漠汗を誅殺した。さらに277年、拓跋力微は病気を患ったので烏桓王庫賢に軍を任せたが、庫賢もまた衛瓘の賄賂を受け取っていたので、拓跋部の諸大人へ「可汗(拓跋力微)はお前たちに乗せられて子を殺したことを恨み、全ての大人の長男を殺すよう命を下された」と告げると、諸大人はこれを信じて驚き離散してしまった。これにより、拓跋部の勢力は大いに弱体化した。278年、再び洛陽に召喚されると、尚書令・侍中に任じられた。
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