西晋の崩壊
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同年、張寔は督護王該を長安へ派遣し、地方の珍品・名馬・経史・書物といった諸郡の貢物を献上した。8月、漢(前趙)の中山公劉曜が長安に襲来すると、張寔は救援の為に再び王該を派遣した。愍帝は張寔の忠誠を称賛し、都督陝西諸軍事に任じた。 この時、度重なる劉曜軍の侵攻により長安は完全に孤立しており、食料不足となった長安では人同士が食らい合い、多くの死者が出る有様であった。11月、愍帝は劉曜へ降伏することを決め、黄門郎史淑・侍御史王沖を涼州へ派遣した。史淑らは張寔に接見すると「帝は降伏されました。我等は陛下の詔を持ってここまで逃げてきました」と述べ、詔書を見せた。その内容は「国は災厄に見舞われ、禍は晋室にまで降りかかり、京城(洛陽)は陥落し、先帝(懐帝)は賊に捕らわれたたままこの世を去った。朕は宛・許と漂流した末に旧都長安に至った。群臣は朝廷に主君がいないことから、皆朕に帰し、朕は幼少の身ながらも王公の上に立つこととなった。帝位に昇ってから四年が経ったが、巨寇を除いて危難を救うことも出来ず、民百姓へはしきりに苦難を被らせてしまった。皆朕の不明の致すところである。羯賊(異民族の蔑称)の劉載(劉聡の別名)は帝号を僭称し、先帝に災いを与え、思うがままに藩王を殺害した。この仇恨・恥辱は決して忘れず、今日まで片時も戦いの準備を怠ったことは無かった。劉曜は昨年9月よりその衆を率い、虚に乗じて深く侵攻し、羌胡を人質に取って北地を落とした。麹允は軍を率いて迎撃したが、その六軍は敗れて賊軍は長安に迫り、弓矢が宮殿の中まで届く程だった。胡嵩らは国難に駆けつけようとしたが、後方に留まったため効果は無かった。さらに深く包囲されると、外からの救援も到着しなくなった。食糧は尽き、人員も不足し、遂に捕虜の身となってしまった。上は天霊に恥じ、下は祖宗を痛ましく思う所である。汝の家は代々忠実・温厚で節操を固く守り、その勲功は西夏の地において目覚ましく、四海の人が敬い慕っており、朕の拠り所であった。今、汝を大都督・涼州牧・侍中・司空に任じるので、これを受け入れ、情勢を見て事を進行するように。琅邪王(司馬睿)は宗室の中でも賢人であり、今は遠く江南の地にいる。今、朝廷は流亡の状態にあり、国家は危急の時を迎えている。朕は既に、琅邪王に詔を下して帝位を代行させるよう伝えている。願わくば、汝は琅邪王を助け、共に国難に立ち向かうように。もし汝が晋室を忘れていないのであれば、宗廟の傍にいることを頼みたい。朕は明日には城を出て投降するので、夜のうちに公卿を呼び寄せ、後事を託した。史淑・王沖を密かに汝の下に派遣し、この詔を授けるのだ。この重命を受け、汝が奮勉することを望む」というものであった。張寔は2人の勅使を三日三晩に渡って盛大にもてなしたが、愍帝が捕らわれたことを受け、任命された官職は全て辞退した。 これより以前、張寔の叔父である張粛は長安の危機を聞き、自ら先鋒となり劉曜を撃破したいと請うたが、張寔は張粛が老齢であることから許可しなかった。長安が陥落したと知ると、張粛は悲憤の余り亡くなった。 317年1月、漢帝劉聡が愍帝を強制的に帝から降ろしたと知り、張寔は三日に渡って慟哭した。また、この国難を救うため、太府司馬韓璞・滅寇将軍田斉・撫戎将軍張閬・前鋒督護陰預に歩騎1万を率いさせ、東へ派遣した。また、討虜将軍陳安・安故郡太守賈騫・隴西郡太守呉紹らにもそれぞれ郡兵を率いさせ、韓璞らの前駆とした。 出兵前、張寔は韓璞を戒め「以前諸将を遣わした際、各々の意志が異なり、動きを同じくすることが出来ず、作戦は阻まれた。内部で和親が出来ていないのに、他人を従わせることなど出来るわけがない。今、五将の統率を卿に任せるので、一体となり行動を起こすのだ。我の耳に不和の連絡が届かない事を願う」と伝えた。また、南陽王司馬保に書を送り「王室に変事があれば、我らは身命を投げうつことを忘れてはなりません。我が州は遠方にあり、都では多難が続いております故、以前には賈騫を派遣し、変事が起きた際には公の動きに呼応できるよう遠望させておりました。その最中で符命(愍帝の即位)を受け、勅命により賈騫の軍は一旦帰還しました。その後、賊軍により北地が陥落し、長安に奴らが迫った時、胡嵩は軍を進ませず、麹允が金五百をもって救援を胡嵩に請う有様でした。これを聞いて我は再度、賈騫らを進ませました。ですが、あえなく朝廷は賊の手に落ち、我は主上への忠を遂げること叶わず、兵を遣わして難を救うことも出来ませんでした。このことを深く慨嘆しており、この責任は死しても取ることは出来ないでしょう。今更ながら、我は賊軍を討伐する為に韓璞らを遣わしたので、ただ公の命に従うのみです」と述べ、共に漢帝国を討つよう求めた。 韓璞は南安にまで軍を進めたが、諸々の羌族により進路を阻まれた。両軍は百日余りに渡って対峙したので、韓璞軍の兵糧・矢は尽きてしまったが、張閬が金城の軍を率いて到着したため、挟撃して敵軍を大破し、数千の首級を挙げた。しかし、韓璞軍はそれ以上進軍を継続できず、引き返した。
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